『黒部の伝説考』の題字は義父が書いてくれました。挿絵はゴム版で彫りました。私は八百万の神を尊ぶ黒部のお年寄りが大好きでした。ぜひ私たちの祖先たちが語り継いできた伝説を楽しく読んでいただきたいと思います。
[目次]
はじめに
お寺に伝わる伝説と尊い僧や仏の伝説
一、 三本柿の伝説(三日市)
二、 三十五光明の御名号(大布施)
三、 堅くてまずい梨 (三日市)
四、寝てなる善念寺の柿 (若栗)
五、汗かき仏(生地)
六、光明寺に伝わる観世音菩薩と采配(生地)
七、このほかの伝説
神社に伝わる伝説
一、新治神社に伝わる伝説(生地)
三島様に伝わる伝説(三日市)
三、ガンドウ宮(大布施)
四、この他の伝説
黒部川の大蛇の伝説
一、 荻生のちまき(荻生)
二、箱根長者(荻生)
三、この他の大蛇の伝説
★はじめに(1994年7月22日記)
『黒部の伝説考』は、一六年前の昭和五十三年(一九七八年)、昭和女子大学短期大学部国文学科在学中に卒論として手がけた。その時には、思うように資料も集められなかった。短大を卒業して、少しずつ資料を集めたり、いろんな参考書物に目を通したりしていたが、編集の仕事をするようになってから、本格的に書いてみようと思い始めた。その後も育児などに追われて、なかなか思うようには進まなかった。昨年の七月、主人の転勤で一二年間の関東生活にピリオドを打ち、金沢に移り住むことになった。北陸の空気に触れ、私は矢も楯もたまらずペンを取った。「早く完成させたい!」
思えば、恩師で中学校の先生に卒論を書くに当たり、自分らしいものを作りたいとご相談したことがきっかけとなった。先生のご尊父の『黒部川の自然と文化』という本を、何かの参考になればと手渡して下さった。読んでいるうちに、住み慣れた黒部の自然と文化、そして黒部川に魅了されていった。
もちろん私は常々大学の友人たちに、「黒部の自然は日本一である!」と謳っていた。そして、八百万の神を尊ぶ黒部のお年寄りが大好きでもある。祖父母からはいろいろな神や仏の話を聞かされて育った。おもやんち(本家)の祖母などは身も心も仏教信者で、臨終を迎えようとしている時、ベッドを囲んだ人たちの顔を見て、指で円を描き、自分の胸で合掌し、死へ旅立っていった。
親鸞聖人の伝説を手紙で綴ってくれたごぜんどのおばあちゃんは、おもやんちのおばあちゃんの友達であった。数年前まで村のおばあちゃんたちがごぜんどに集い、神仏の話や昔の話をお茶菓子に、夕暮れになるまで膝を交えていらっしゃた。知恵袋のお年寄りを大切にしたいものだ。
再筆にあたり、祖父母をはじめ、今は亡き懐かしい人たちに、再び会えたような気がしてとてもうれしい。一六年前の夏に自転車で生地や三日市、大布施など方々の土地を訪ねたことが昨日のように思われる。生地で伝説を探し歩いた時は、教育実習で訪れていた高志野中学校で知り合った生徒さんたちが、うだるような暑さの中をいろいろ案内してくれた。そのおかげで貴重な話をたくさん聞くことができた。たくさんの人たちにご協力いただき、感謝の気持ちでいっぱいである。
多くの文献を参考にしたが、土地感覚がずれていたり、一六年間の間に変化しているものもあると思う。皆さんの御教授をお願いしたい。
ぜひ私たちの祖先たちが語り継いできてくれた伝説を、楽しく読んでほしい。
お寺に伝わる伝説と尊い僧や仏の伝説
越中の人々は厚く仏教を信じ、ほとんどの家はそれぞれの寺の檀家衆となっている。北陸は「真宗王国」と言われ、特に越前・加賀・能登・越中の四カ国では、真宗門徒の数は圧倒的であり、本願寺派・大谷派の最も主要な地盤となっている。
この地域の年中行事としては、「親鸞忌」前後に行なわれるホンコサンと言われる報恩講がある。寺々の報恩講でも、門徒の家で行なわれるウチボンコと言われる報恩講でも、経を読み和讃を唱和し、御文章を口にするのは、僧侶だけではない。年配の信者は誰でも、和讃をそらんじ御文章・御文を暗誦している。
私も小さい頃から、親鸞聖人のことや家の宗教が浄土真宗であることは、祖父母から聞かされていた。そして、知らず知らずのうちにお経を覚えていたのである。墓参りや亡き祖母の精進の日(月命日)、盆正月には決まって祖父を中心に家族全員でお経を読み、仏やご先祖様に手を合わせることを忘れないでいる。
祖父は、「南無阿弥陀仏」についてよく話をしてくれる。(祖父は一三年前極楽浄土へ旅立った。)
~じいちゃんたちみたいな愚者や、罪を犯した悪い人間たちは、死んだちゃ絶対に救われんがね。
なんやら、おとろしい所へ落ちて行くが。釜の中やら、鬼のおる所やら、なにせいひどいめに会うところながいちゃ。
それを助けるために、親鸞聖人たちが一生懸命になってさあ、修業してみんなに道を切り開いて下さったがいちゃ。悪いことをしてしまった人間に対しても、同じようにして悟りを開かせる教えを、かりやすく説明し導いてくれっしゃるがいちゃね。そして、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心から唱えれば、仏様は極楽浄土へ連れて行ってくれっしゃるがよ。~(*おとろしい…恐ろしい*なにせい…とにかく*かりやすい…簡単に)
さまざまな異なる風土に、さまざまな姿をとって真宗の信仰が定着しているが、北陸ほど生活の奥深くまで根を下ろしている地域は少ない。その一つの理由は、真宗信仰の信者たちが横のつながりを組みあげ、連帯となり、一揆を起こして、郡境を越え、国境を越えて北陸一帯をぬりつぶしたことにある。
しかし、これだけ深く生活の中に根付いたのは、ここが雪国であるということも見逃せないのではないだろうか。雪に閉じ込められる北陸の冬は長い。村々が陸の孤島になってしまう閉ざされた暮らしの中で、孤独に耐えきれない野の民、山の民、海の民が雪に備える暮らしのよりどころを信仰に求めた。門徒どうしが互いに膝を交えて、暗い吹雪の日々いろりを囲みながら、「弥陀仏」にすがって生きぬこうとしたのは、決して不思議なことではない。
越中は親鸞聖人をはじめ綽如、蓮如、教如などの高僧が巡行した土地である。また赤尾の道宗さんのような人をはじめ、有名ではないがたくさんの宗教を生み出した。そのような宗教人たちの働きもあり、またこの土地の人々の信仰心の厚さにより、真宗信仰が人々の心に深く流れ続けてきたものと思われる。
一、三本柿の伝説 (三日市)
その昔、親鸞聖人が北陸路へ足を運んだのは、承元元年(一二〇七年)、師の法然上人が土佐(高知)へ流された時、親鸞聖人も念仏禁制により罪を受け、三月十六日に都を出て、越後(新潟)の国府へ流罪となった時である。聖人は三五歳で名も藤井善信と名乗っていた。陸路を通ったか、海路を通ったか、いろいろ説がある。一説には、海路を使い越中を通らなかったというものもある。
しかし、越中には聖人に関するたくさんの伝説があり、この黒部の地にも聖人の話が語り継がれている。まず三日市に伝わる伝説を訪ねてみよう。
三日市の柿の木町にある徳法寺に、「三本柿」という町の人たちから大切にされている柿の木がある。現在は一本しか残っていないが、宝暦十四年(一七六四年)の調書には、「三本柿、三日市村領にこれあり。 親鸞上人串柿三種を植え置き、三本生じ候ところ、成長に随い一本にあいなり候由、申し伝う」と記されている。その残った一本の柿の木は、今も聖人の腰掛石とともに寺の門前にある。
~昔ねえ、親鸞聖人が三日市の町を通らっしゃった時にね、かやたねという人にひと晩泊めてくれって頼まれたいと。でも、そのおばあさんは、だめやって言うたが。そったらねえ、親鸞聖人はその家の軒下に寝とらっしゃったがいと。しばらくして、何気なくおばあさんが聖人を見たら、聖人から後光が射しとったいって。おばあさんはびっくりして、聖人を家へ招いて焼いた串柿をご馳走したがいと。そしたらねえ、聖人は芽なんか出んはずながにねえ、その焼いた串柿の黒い種を三つぶ植えて立ち去られたがいと。不思議なことに、あしたの朝になったら芽が出とって、やがて実がたくさんなって、食べてみると種が黒かったがいと。今だに種が黒いがですちゃ。不思議なことやちゃねえ。(徳法寺近所の婦人の話)~ *そったら…そうしたら*出んはずやがに…出ないはずなのに
「三本柿」の伝説には、ところどころ少しずつ違うものがある。婦人の話によると、かやたねというおばあさんが、聖人が軒下で寝ていた時に、聖人から後光が射しているのを見て、尊いお方だと思い、一夜の宿を貸し、焼いた串柿をご馳走したことになっている。
しかし、『越中志徴』によると、聖人が辻の石に腰掛けている姿が泥水に映り、その姿がピカピカ輝いているのを源左衛門時国という豪族の子孫・経田屋の夫婦が見て、尊いお方だと思い、一夜の宿を貸した。そして、串柿を差し上げたことになっている。 夫婦は心から帰依して親鸞聖人の弟子になり、やがて祐円の法号と十字の名号を授かった。
また徳法寺の『十字の名号の縁起』には、聖人が辻源左エ門時国の門前の石で休んでいた時、聖人の御目から光が放っているのを見て、尊いお方だと思い、一夜の宿を貸した。そして聖人から教えを請うて、祐円という法名と「皈命尽十方無碍光如来(はんみょうじんじゅっほうむげこうにょらい)」の十字の名号を授かった。
その時、経田屋太兵衛の老婆も襖の外で聴聞した。その老婆が聖人の出発の日に、家に招待し串柿を差し上げたということになっている。そして、
病む子をば預けて帰る旅の空 心はここに残りこそすれ
と詠たい、源左エ門の家を去るということになっている。やがて、源左エ門は十字の名号を御本尊として徳法寺を建立した。
このように、遠い昔に生まれた伝説が、後に少しずつ色をつけて、いろいろな姿に伝わっているものが多い。伝説は土地によって、場所によって、人々の影響の受け方によって、常に新しい時代の言葉で、どのようにも表現されていくのである。
「伝説はことに誤解と利用によって、速やかに変化すべき伝承だとも言うことができる。」 (柳田国男)
二、三十五光明の御名号(大布施)
親鸞聖人は三日市を出て、金屋村(荻生村金津)を通り黒部川にさしかかると、折悪く三国一の難関と言われているその川が見る見る水かさを増し、濁流が渦を巻いて川止めになってしまった。やむなく金屋村の長井源蔵の家(後の浄永寺)を訪ねて、一夜の宿を乞うことになった。
ちょうど、私の村(出島)のごぜんどのおばあちゃんが、浄永寺の亡きおばあちゃんと大の仲良しだったので、長井源蔵の家を訪ねた親鸞聖人について詳しく尋ねてもらった。
昔のこと、親鸞聖人は師法然上人の仏の御経に従い、お念仏を説いておられたのだそうです。その時の朝廷では、念仏禁ぜの立て札を上げたがです。ところが、この二人の聖人は大変悲しみ、思わずお念仏を唱えられたそうです。それによって、師法然上人は九州へ、親鸞聖人は越後の国へ流者になられたそうです。
その折、この大布施の金屋村を通られ、黒部川を越えようとされたのですが、折悪く、大雨の
ため川は大荒れだったそうです。仕方なく金屋村の長井源蔵の宅へたどり、一夜の宿をお頼みになりました。
ところが、 源蔵夫婦は泊められないと断わったそうです。でも、お聖人はこんな邪険者にこそ尊い仏法 のいわれを聞かせてやりたいと思われました。外の軒の下に宿をとり、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えられていました。
その声がいかに源蔵夫婦の身にしみたのか分かりませんが、そっと外を覗き、どうぞ中に入ってくださいとご招待しました。
そして本願の「南無阿弥陀仏」のいわれを聞いて、 ただ感激の涙にむせび喜んだのです。
そこで聖人は三日間滞在されて、お別れの時、源蔵夫婦は大いに悲しみました。お聖人様はこの二人に形見として「帰命盡十方無碍光如来」の名号をお書きになって、源蔵には黒の灰で、婦人には金の文字で書いて与えられました。
その上、源蔵には「宗真房」の法名を下さいました。この名号は、浄永寺に今も大切に保存してあるの です。 (ごぜんどんのおばあちゃんの手紙)
*金の文字婦人には三五願いを表す三五筋の光明を入れた紺(紺の紙に金で経文を書いたもの)の名号を与えられた。
三、堅くてまずい梨 (三日市)
昔、弘法大師様が三日市にこっしゃった時に、ある家のおいしそうに実っている梨をみっしゃって、一つくれるようにゆわっしゃったが。ところが、その家のおばあさんは大変よこんぼうで、人に上げることをもったいながって、「この梨は、堅くてまずいから食べられんがいちゃ。」と言って、上げんだいと。そしたら、それからというもの三日市の梨は堅くてまずくなったがいと。(としさんの話) *こっしゃった時…こられた時 *みっしゃって…見られた*ゆわっしゃったが…言われた *よこんぼう…「よくんぼう」とも言う。欲が深い
伝説の弘法大師は、どんな田舎の村にでもよく出かけた。その記念として残っている不思議な話はどれもこれも似ているが、中でも数の多いのは、今まで水のなかった土地に美しくて豊かな清水を授けていったという話である。大師様が、のどが渇き水を乞われた時、大切な水を快く差し上げると、そんなに水が不足なら一つ井戸を授けよう。そう言って、旅の杖を地面に突き立てると、たちまちそこから清水が流れ出して池になったという内容である。
またこれとまったく反対の内容で、老婆に水を乞うた時に出し惜しみしたり、汚い水を勧めた罰だと言って、大師は腹を立て一村の水をしまいこんでしまう。そういう村は今でもどこを掘っても、水に鉄気があって、使うことができないという。この大師の伝説は、もう昔話になって多くの村の子供たちに語り伝えられている。清水の伝説は、おもに飲み水に不足している土地に伝わっている。黒部の土地は、水に恵まれているので清水の伝説はないようだ。
歴史の中の弘法大師は、最澄と共に唐に行き密教を学び、帰国後高雄山寺で真言宗を開く。また高野山に金 剛峯寺を建立し、真宗の布教を進めた。そして讃岐(香川県)の万濃池を作るなど社会事業に努め、綜藝種智院を建てて庶民に儒教や仏教を学ばせ、詩文や書道に巧みであったことなどその活動は多彩なものだった。このようなことからも、大師はそう遠方まで旅行のできなかった人である。しかし、大師はとても人気がある人物で、他のいろいろな天然の不思議もあれもこれも大師の仕事のように説明されている。清水の伝説の形をとって、三日市の『堅くてまずい梨』のように梨になったり、薪、芋になった伝説も数多くある。伝説の弘法大師は全体に少し怒りすぎ、また喜びすぎているようだ。ともあれ、弘法大師の不思議話は仏教の布教とは関係なく、私たちの日常の中に生きている。
四、寝てなる善念寺の柿 (若栗)
若栗の中坪にある浄土真宗お東(大谷派)の善念寺は、僧覚円坊が大永年間(一五二二~一五二八年)に開
いたと伝えられている。このお寺の前に地面にはっている柿の木があるが、これは昔、蓮如上人が布教のため に各地を巡っていた時、植えられたものと伝えられている。柿の木は横に五メートル余りで、四カ所で根付き、 そこから伸びた四本の枝が幹となり、二種類の柿の実を付けている。幹が横に寝ているので、「寝てなる善念 寺の柿」と呼ばれている。
善念寺にある寝てなる柿の木はね、昔は北を向いておったがいちゃね。ある時、柿の木の近くに田んぼを持っとる百姓が、田んぼが陰になって、お米がちゃんととれんから、寺に頼んで切ってもらうことにしたいと。ところが、翌朝見ると柿の木は東を向いとったがね。その後、台風で倒れたまま幹が根付き、枝が幹になって柿を実らせておるがいちゃ。不思議なことやちゃ。なんでも、蓮如上人が仏法を説いて各地を回っておらっしゃった時に、若栗にもお寄りになったがね。善念寺の柿はその時に、上人が植えっしゃったありがたいものやということなが、仏のなせる業やちゃね。(島米作さんの話)
蓮如上人が布教のため倶利加羅に向かう時、岩田善太郎という武士の家に、上人の弟子たちが食べ物を乞う ために尋ねたが、断わられた。何度も頼んだら、やっと粗末な残り飯をもらうことができた。
ある年のこと、加賀の二俣で偉いお坊さんの説教があると聞いて、善太郎夫婦が出かけていった。説教をしているお坊さんを見ると、以前、残り飯を邪険に与えた人だと分かり、善太郎夫妻は大変驚いた。
夫婦は過去の失礼を謝って、上人の尊い仏法のいわれをありがたく拝聴した。夫婦は上人の教えに感激し、そのまま弟子になったという。
その後、善太郎は「覚円坊」、妻は「妙善」の名をもらい、文明十四年(一四六九年)、上人が植えたと言われる柿の木が育っている若栗の現在の地に、善念寺を建てたのである。
(『黒部川の自然と文化』参考)
五、 汗かき仏(生地)
越中の国はお寺の多い国で、海辺の町生地にもたくさんのお寺があり、阿弥陀堂という地名もある。 その阿弥陀堂から北に向かって歩いて行くと、松や竹に囲まれた細い砂利道に出るが、その奥に解説庵という禅宗の尼寺がある。この寺に「汗かき仏」と称される仏像が鎮座している。耳を澄ますと波の音が聞こえ、その打ち返す波の音を耳にしながら、尼僧が『汗かき仏』の伝説を語って下さった。
「この仏がこの寺にこっしゃってから、もう百年ほども経つがですちゃ。この方は元ね、あの能登のあたという所におられたがです。私たちも言い伝えに聞いておらですけど、このっさんがおられた村がね、火事いったんですと。その時、この仏様をお守りしておったおじいちゃんが仏様に、
「ここにおられたちゃ、燃えるから出られんか。」ってゆうて、おじいちゃんが背負って出られたわけですと。その寺を出た仏は、
「下(しも)へ行きたい。下へ行きたい。」と言われて、はじめは 魚津のじょうせん寺さんやらへ来られて、それからこの寺にこっしゃったがです。
いつからか分からんがですけれど、この仏がよく汗をかかっしゃるがで、「汗かき仏」と呼ばれるようになったがです。汗をかかっしゃる時には、よく火事がいくと言われ、昔は村の人たちが注意しとったがですと。今でも特に暑い日には、汗をぼたぼたかいておらっしゃるがですちゃ。
* あた…「あた」という地名 *このっさん…この人(私のこと) * 火事いったん…火事になった
* 出られんか…出ましょう *こっしゃったがです…おいでになったのです
この仏は、お釈迦様の姿をして、丈が一・二メートルあまり、幅が七一センチ程のがっちりした姿をしている。
また全身が真っ黒で古色蒼然として、彫刻は細かいところまで良くできている。尼僧の話では、この仏は能登から移って来たことになっているが、『黒部川の自然と文化』 『越中伝説集』によると、嘉永の初め(一八四八年)頃に越後(新潟)からこの寺に移ったとされている。崇敬の気持ちが自然に起きてくるその顔面を仰ぐと、いかにも頬あたりから下顎へ一面に滴るような汗をかいている。ことに焼け付くような暑い夏の日などには、たくさんの汗をかくので、「汗かきのお釈迦様」と呼ばれるようになったという。
またこの仏様が汗をかくと、必ず火事が起こるとも言われていた。
汗と見られるのは、仏の頭部が松の材を使って作られたもので、松脂がしみ出たものである。しかし、人々は単にそれだけの理由とは考えなかった。万の神を信じる私たちの祖先は、全てのものに霊験を見い出さずにおかなかった。
よく石が汗をかくという話もあるが、これも原因を単に湿気によるものだとは思わず、そこにもまた霊験を見いだしたのである。
富山県の小矢部市福町には、『汗かき地蔵』の伝説がある。この地蔵は商売の元手を盗まれ、小矢部川に身を投げた旅商人の七兵衛の霊を慰めるために、文化七年(一八一〇年)に作られた。不思議なことには、日本の国に何か大事変があると、この地蔵尊の肌が汗をかいたようにびっしょりと濡れるのだという。日清、日露、太平洋戦争時も地蔵尊の汗かきを見たという人が多かったということだ。
六、光明寺に伝わる観世音菩薩と采配(生地)
生地の南端にある神明町(しんめいまち)に光明寺という寺がある。 この寺には、海から現われたという観世音菩薩が安置されており、光明寺の縁起にもその菩薩の由来が記されている。このお寺の住職が分かりやすく話して下さった。
明治十七年(一八八四年)の秋、生地の四十物町(あいものちょう)の佐賀宗右エ門の船が秋田県の羽後国へ渡航したがです。本荘港に碇泊しとったある夜に、船の近くの海面に光明があかあかと点ったがです。船長の高岡豊次郎は不思議に思って、波をかき分け、海の中にもぐって探ってみたがいと。なんとそこには一体の観世音菩薩が漂っていたがですちゃ。 豊次郎はその菩薩を持って帰り、自分の家で供養しとったがですけど、やがて霊像を俗家に安置するのは不浄ではないかと思って、この光明寺に寄付することになったがですちゃ。
またこのお寺には、徳川家康のものだったという珍しい形をした采配が保管されとるがいちゃ。この采配は蓮の形をしたもので、木で作られ、高さ一五センチぐらいのもので、蓮の花の真中にギヤマンの窓があり、その中には阿弥陀如来、 観世音菩薩、勢至 菩薩の三尊像が配置されているがです。また持ち手になっている茎の下の方に数珠がはめ込まれていますが。この珍しい徳川家康の所持品であった采配が、なぜこの光明寺にあるのだろうかと言いますと。
佐々成政が秀吉に攻められて、助けをしてもろうがに立山越えをして、徳川家康の所へ行ったわけやちゃね。その時に、家康がご苦労やったと言うて、鎧冑などを成政に与えたがです。そのみやげのなかに、蓮の形をした、丈が一五センチぐらいの奇妙な木彫りがあったがいちゃ。それはね、家康が陣中でもっとった采配やったがね。
その采配には今ならガラスやけど、その当時はギヤマンと言われて高価なものでできとる窓があって、 その中に三体の仏様がおられるがね。また下の方には、数珠のかわりになるもんがついとるがです。 家康は浄土宗ながね、だから采配もこういう形のを使っとったがいちゃ。成政の家来に堀という人がおって、どういう手柄でか分からんけど、成政が堀にその采配をやったがです。やがて成政軍が秀吉軍に負けて、布施へ落ち延び、更に生地まで落ちて来たわけながいちゃ。だから、今も生地には堀という家がいっぱいありますがね。その内堀の家が貧乏になって、この采配を待っとってもちゃんと保管していかれんと思い、この寺へ寄付したのだときいておりますがね。 *もろがに…もらうのに *采配…昔、大将が兵を指揮する時に使った道具
(住職さんのお話)天正十二年(一五八四年)十二月二十五日、年の瀬も迫った北国に雪は降り続いている。その中、富山城主佐々成政はアルプス越えを行なった。それは主君織田信長が本能寺で討たれて以来、成政の周囲はすっかり敵
となってしまったので、徳川家康に会って前後策を考えようと思ったからである。夜半、百余人を連れて城を抜け出し、アルプスに向かい、針ノ木峠を抜け、信州のある樵の家で宿を取り、無事浜松に出た。そして家康と会い、再び雪のアルプスを越え、富山城へ帰って行ったということだ。とても人間業ではない。 勇敢にも北陸の雪に挑んだ成政だったが、もう家康は耳を貸そうとはしなかった。家康から成政に与えられた鎧、胃、采配などの贈り物は、成政に力を貸そうとしない態度を、少しでも柔らかく見せようとする家康の策だったのだろう。成政は翌年八月に越中に押し寄せてきた秀吉の大軍を前に、とうとう頭を丸めて降参した。
七、このほかの伝説
貝の恩返し(石田)
昔、浜に打ち上げられた貝をおもちゃにして、遊んでいる子供たちがいた。そこへ一人のお坊さんが来て、
「その貝は生きているのにかわいそうやろ。私に売ってくれっしゃい。」と言って、子供らにお金をやり、貝にこれから気をつけるようにと言って、海に返してやった。
それから何年か経って、お坊さんが幕府の命に従わないということで、島流しになった。小さな穴の開けられた船に乗せられたお坊さんは、船の中に水が入ってくるので、なんとかして水を汲み出そうと思うが、汲む道具がなかった。お坊さんは、もうこれまでと覚悟して、「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えると、ピタッと水の入ってくるのが止まった。目的地に着いて船底を見ると、貝がピタリとくっついていた。
「おまえのおかげで命拾いをしたちゃ。ありがとう。」と言って、よく見ると、いつか浜で助けてやった貝であった。貝を手に取り、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いてやった。そのことがあってから、この海で捕れる貝の内側には「南無妙法蓮華経」と光る文字が書かれているという。この貝殻を大切にしていると、成仏まちがいなしと伝えられている。
占い石(石田)
石田の北堀切の庵住寺に占い石がある。この石は庵住寺の僧が八十八ヶ所参りの折、道で地蔵さんに似た石だったので拾ってきたものである。旅立ちや婚礼の吉凶を占う時、石を一回撫で回して、手のひらに載せ、重く感じられると凶、軽く感じられれば吉だとされている。
(注)八十八ヶ所 四国にある八十八ヶ所の弘法大師ゆかりの場
オコリを治す地蔵様 (三日市)
東三日市にある地蔵様は、どんな重いオコリでも、お参りすれば直るというので、遠近の人たちから崇拝されている。
(注)オコリ 間欠熱の一つ
オコリおとしの桜(三日市)
三日市下町にある曹洞宗の妙覚寺の境内に、真っ直ぐにそびえ立つ桜の木がある。この桜の木は文化四年(一
八〇七年)に中松屋宗四郎という行商人が行き倒れ、ここに埋められた時に植えられたものである。昔、オコリにかかると、どういう訳か、この桜の木の下でオコリおとしをしたと言われている。
犬が集まるお寺(前沢)
前沢の吉祥寺に犬の格好をした石がある。その石の周りに、毎年暮れから年始にかけて、いろいろな場所から犬が集まって来たそうだ。吉祥寺のある場所には、昔、犬ヶ城という城があったという。
神様が降りてくる寺(前沢)
前沢の吉祥寺では、庚申の日には晩方遅くまで起きていると、天から神様が降りて来て、願いを聞いて下さると言われている。今でもこの日は遅くまで起きて、神様を待っているということだ。
(注) 庚申 かのえさる
オイン様(前沢)
前沢の吉長寺の山頂に、オイン様と呼ばれる猿がいた。村の人は婚礼や法事の時は、鳥やウサギを土産に持って行って、必要な道具を貸してもらった。ところが、ある人が借りた道具を返さなかったので、それ以来もう道具を貸してくれなくなったという。
嘉例沢の五体像(東布施)
東布施の嘉例沢のはずれに五体像がある。ずっと昔、行基というお坊さんが全国を巡っていた時、ここに立ち寄り、横五メートル、高さ五・八メートルの大きな岩に地蔵菩薩立像三体の石像を彫ることにした。一夜で三体を仕上げるため、そばの粉をなめながら彫り続け、夜明け近くになって三体めの顔半分ができた時、「コケコッコー」と早起き鳥が鳴いた。お坊さんは村人に見られると、騒ぎが大きくなると思い、そこから急いで 姿を消した。だから、今でも一体の石仏の顔半分ができ上がっていないのだと言われている。
またその昔、この石仏の横からきれいな水が流れ出ていた。ある夜、この土地の人の夢枕に仏様が立って、「この水は、胃腸によく効く。」と何度も告げた。それで土地の人は、この水を汲んで来て風呂を沸かして入ったという。
子育て地蔵(荻生)
三日市から宇奈月町へ行く旧道端、相撲とりの墓石と並んで小さなお堂がある。 このお堂にお地蔵様が祀ら れているが、土地の人は「子育て地蔵」と呼んでいる。あるとき懐妊した婦人が、この相撲取りの墓石の近くで死んだので、その隣に埋葬した。ところが、夜な夜な赤ん坊の泣き声が聞こえてくるので、土地の人は不思 議に思って、掘り返してみたところ、死んだ婦人の腹から赤ん坊が出て来た。それ以来、このお地蔵様を「子育て地蔵さん」と呼んで、懐妊した婦人が安産のお参りをするようになったという。
(以上『黒部市誌』、『黒部川の自然と文化』『口碑伝説』参考)
弘法大師、慈覚大師、親鸞聖人や日蓮聖人などの高僧が杖や箸などを地面にさして名木を成長させたり、いろいろな霊泉を湧かせたりする伝説が各地にある。これは最初からこれらの人たちの足どりとして、言い伝えられたものでなく、 「なんでも昔、偉いお坊さんが来られた時」という具合に、漠然と話し伝えられたものを、「それは、きっと弘法大師様だ。親鸞聖人様だ。」と後から具体的に、名前がはめ込まれていったものも少なくないようだ。そうすることで伝説は信じやすくなり、広範囲にわたり、ありがたい話を自分たちの身近なものにすることができるからである。
神社に伝わる伝説
一、新治神社に伝わる伝説(生地)
ふるさとにて
ほしがれいをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
板屋根に
石をのせた家々
ほそぼそとほしがれいをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
がらんとしたしろい街道を
山の雪売りがひとりあるいている
この詩は田中冬二氏が少年の頃、ふるさと生地で読んだものである。
生地は日本海に面した漁業の盛んな小さな町で、灯台のある素朴で静かな海辺は、よく小学校や中学校のス
スケッチ場所になる。この生地は今から約八百年以前には、新治村(元は運比波里村)と呼ばれていた。その
頃から町の鎮守の神として祀られてきたのが新治神社である。私は幼少の頃、よく祖父母に連れられてこの町の鉱泉に来ては、境内で遊んだものだ。
新治神社の神主さんに、生地の地名の由来と神社に伝わる伝説を話してもらった。
この神社の起源は,天智天皇の頃やったがですちゃ。その頃は,この生地はまだ新治村って言われとったがです。およそ八百年前に、その新治村が竜巻に襲われて、陥没したがだそうです。それまでの神社は、こういうもんじゃなくて、かなり大きいもんやったがだそうです。やがて海に沈んでいたものが、地殻変動によって、再び地上に持ち上がってきたがです。それで、その間百年ぐらい、この地を逃れとった人々も戻って来て、新しく村が造られるようになったがです。その新しい村の名前も、村が生き返ったということから「生地」と呼ばれるようになったがですちゃ。
その後も、戦国時代に上杉謙信が越中攻めをしたがですけど、その時も生地は全部燃やされたということです。でも、人々はどこへも行かんと、この土地で頑張ってきたがです。だから今もこのように、「生地」として栄えておるがです。
*津波のため新治金村が陥没して蒼海となってしまったのは、久寿元年甲戌(くじゅうがんねんきのえいぬ)一一五四年八月十日の日 *こういうもん こういうもの(今の新治神社を指す)
新治神社は由緒ある社である。 勧請年代はさだかではないが、『三代実録』に「元慶七癸卯年(八八三年) 十二月詔して、越中国正六位上、新治神社従五位下を授く。」と記されている。
新治全村が陥没した時に、新治神社の宮殿や石造りの大鳥居までが蒼海の中に沈んでしまった。また同時に、
旧記・神宝もことごとく流出してしまう。鳥居跡が海岸から約九〇〇キロほど海底に残っているという。 この神社には霊験あらたかな『新治神の霊火』、『謙信手植えの松』という伝説が伝わっている。
新治神の霊火
おおよそ四百年前の八月、海が荒れて大時化になったそうですちゃ。その日、漁に出とった船が木の葉 のようになって、方向を失い、どんよりと黒ずんだ海の中でさまよっておったがです。漁師たちは、「今はもう神様に任せるしかない。」と思って、一心不乱に神に祈っていたがです。そうしているうちに、遠くの方に灯火が見えてきたがいと。
「あれこそ陸だ!」と叫びあっ て、一生懸命灯火をめがけ漕いで 行ったら、やっとのことで陸にたどり着くことができたがです。漁師たちは無事を喜びあって、我に返った時に、
「あの灯火はどっから出とったががだろう。」と思い立ち、皆でその場所へ行ってみたがいと。
そったら、ここ新治神社の境内やったがだそうです。ところが、回りを見回したけれど、火の元一つなかったがです。そこで皆は神様のお陰だと信じ、今に至ってもありがたく信心しとるがですちゃ。(神主さんの話)
*そったら そうしたら
これは、享徳三年(一四五四年)八月二十五日の夜半に起きたことである。荒れ狂った真っ黒な海の中で、漁師たちは何もなす術がなかった。 その時、一筋の明かりが漁師たちの目に映ったのである。死力を尽くして、海岸に上がった漁師たちは、すぐに明かりの見えていた新治神社の周辺を調べてみたが、火の気などまったくなかった。漁師たちは新治神社の霊験だと信じ、この後、槍が先の岸に常燈明を設け、神の加護を記念するとともに舟人たちの標示灯とした。また人々の心に止めておくために、秋の祭日をその年を契機に八月二十五日と改め、松明祭りとした。祭りの日は夜半過ぎから町家を離れて,新治神社までの道を松明をともして,感謝の気持を込め、歩くのが習わしになっている。それ以来一度も止めたことがなかったという。
「焚けよ松火 新治様へ ご恩報謝の秋祭」(民謡『しばんば』より)
海上行路がいつも平穏ならばよいが、一度海上が荒れ狂うと山のような波が船を被う。霊火の伝説は、このような行路難の反映である。海上での仕事や旅行は、昔の人にとっては今よりは数段大きな脅威であった。行路における災禍は荒ぶる神の行ないで、言い換えれば神の祭事を怠った結果、不幸が起きたのだとも思ったのであろう。またそれらの災禍危難を免れるために、荒ぶる神の心を和らげようと、祭事をするようになったのではないだろうか。
謙信手植えの松
天文年間(一五三二~一五五五年)の頃、諸国を行脚していたある僧たちが生地の越湖に来たがです。その時、その僧たちの中で一番偉い人が、病を患って、危篤状態になったがです。一緒にいた人たちはどうしてよいかなす術もなく、ただオロオロするばかりだったがです。弟子の僧たちが町の鎮守の新治神社が霊験あらたかだということを聞いてきて、さっそく神殿に詣でて祈願したがです。すると、その夜の子の刻に白髪の僧が枕元に現われて、
「明朝の刻に、外に出て白鳩に付いて行きなさい。その鳩があなたの枝に止まっ時、その場所を杖で掘ってみなさい。そこから清水が湧いて出ます。その水を浴びると僧の病はなおります。」と言って、すぐに姿を消したがです。これは神のお導きだと思って、翌朝老人に教わった通りにしたら、霊水が湧いて出たがです。その水でお湯を沸かして僧を入浴させたら、一月ぐらで病気がなおって元気になられたがですと。僧たちは喜び、新治神社の霊験に感謝し、この地に記念の松を植えて立ち去ったがやということですちゃ。
*子の刻 午前零時頃 *卯の刻 午前六時頃 (神主さんの話)
この僧の病は脚気で、僧は隣国越後春日山の英雄上杉謙信だと伝えられ、後にその松を「謙信手植えの松」 と呼ぶようになった。現在、幹囲が五・五メートル、樹高二五メートルで市内で最も大きいクロ松で樹齢約四百年と推測される。
永禄三年(一五六〇年)三月、僧一乗という者がこの地に一浴場を開き、手植えの松の木の下に庚申仏を祀って長く世に伝えた。また天正十四年(一五八六年)五月、上杉謙信の養子景勝が京都に上ろうとして、村椿に陣をとった時に、新治神社に参詣した、景勝が謙信の命を救った霊水で入浴したというので、この霊水を「御旗の水」とも称した。
二、三島様に伝わる伝説(三日市)
黒部市三日市に鎮座する八心大市比古神社は、近郷の人々から「三島さん」と親しみを持って呼ばれている。
三島さんは昔から五穀豊饒の守護神として崇敬され、信仰されている神社である。また「八心薬」の家伝の名
薬によって、人々の病苦を救ったと言われている。この神社は富山県に数多くある神社の中で、延喜式内社に数えられている。延喜式内社というのは、醍醐天皇の延長五年(九二七年)に撰修された『延喜式』の神名帳に登載されている神社で、越中には三四社あり八心大市比古神社はその中の一社に当たる。
『越中志徴』に、「ただし、此八心大市比古神社を、三日市の社なりとするもの、古書に徴證なし、三日市の地名によりて旧神宮の付会せしならむといへり。」とあるが、そのことを裏付けるような話が伝わっている。
(注)*付会…無理にこじつけること
飛んできた神幣
昔、三島町の辺りに、雲の中から神幣が飛んで来たがいと。皆はびっくりして、神幣を拾い集めたがいちゃ。その土地の人々はありがたがって、「ここに、皆でお金を集めて、お宮さんを建てっしゃらんか。」 ということになったがいと。それがこの三島さんながいちゃね。
でも、他の話もあるがいちゃ。三日市のある人が、嘉例沢のお宮さんから御神体を盗んできて、三島さんを建てたがいと。それでお宮さんを新しくする時も、神様が懐かしい嘉例沢を見たいとゆわっしゃったので、注文通りに建てたがやそうやわ。どの話が本当かわからんちゃね。(三島さん境内にいた婦人の話)
(注) *神幣…紙を切って作ったもので、神に祈る時や、御はらいをする時などに使うもの ※三島神社はもとは県道をはさんで今より北方にあったが、永禄年間(一五五八~一五七〇年) 長尾氏の兵火にかかり、加重および社殿宝記などほとんど失してしまった。大正八年(一五八〇年)に今のところに移され、今の社殿は昭和十七年(一九四二年)に建設された
今も嘉例沢に「ふるみやの跡」という所があり、ここから御神体が三島さんへ移ったと伝えられている。 また明治三十年(一八九八年)に刊行された渡辺市太郎氏編の『越中宝鑑』によると、神幣は嘉例沢の方から三島村に飛んで来て、その土地の人はありがたがって、神社を建立し、御神体の方は自然に出現することになっている。
三島さんの縁起の話もさることながら、他に「鶏を食べない氏子』、『三島の化け藤』、『赤石』という奇妙な伝説がこの神社には伝わっている。
鶏を食べない氏子
三島さんの神様の使いは鶏ながいと。昔から氏子のっさんで鳥肉やとか卵を食べっしゃると、必ず血を吐いたり、死なっしゃったりしっしゃるがいって。 そんなもんやから、氏子のっさんで鶏を飼うっさんもいらっしゃらなんだがやそうです。今のっさんたちはどうしとらっしゃるがか知らんけどね。 (三島さん境内にいた婦人の話)
(注) *死なっしゃったりしっしゃるがいって…死んでしまわれたりするそうです *どうしとらっしゃるか…どうしておられるか
三島の赤石
三島さんの境内にねえ。近年まで赤い石があったがいと。ほって、その石が赤ん坊のようにねえ、夜に
なったら泣いたりねえ、とっしょりなおばあさんに化けたりして、人々を困らせておったがいと。
ほんじゃから、石屋に頼んでねえ、割ろうとしたがいと。ところが、石は割れんと、血ばっかり出てきたいと。まもなくその石屋は病にかかって、死んでしもうたがいと。人々は石の呪いやって言うて、おっとろしがっとたがねえ。ほんでも、今はどこへ行ったんか見当たらんわねえ。(三島さん境内にいた婦人の話)
(注)*ほって…そうして *とっしょり…年寄り *ほんじゃから…それだから *おっとろしがっとたが…怖がっていた *ほんでも…それでも
三島の化け藤
三島さんにある、あのでっかい藤の木はね、化け藤ってゆわれとるがいちゃ。その昔ねえ、この藤の木が、よく器量よしの娘に化けたり、きれいな侍に化けたりして、若い男の人や女の人を惑わせたがいと。近年にも何回か、人を道に迷わせて、雪道に倒れとった人もおったがいと。おっかないことやちゃ。 (三島さん境内にいた婦人の話)
(注) *おっかないことやちゃ…恐ろしいことです
この藤の木は三島さんの旧社地にあり、今も頑強に根を下ろしている。幹の回りは三メートル、樹高二六メ ートルという大藤である。天正年間(一五七三~一五九二年)に有志が相談して、樹下に小社を建てて、木の霊を祀り「藤の神社」と崇めたので、それからは怪しいことがなくなったと言われている。
国内で古くから神社のあるところは、早くから開拓された所である。土地を開いた人たちは、やがて神への感謝と報恩、そして守護を祈って神社を建立する。八心大市比古神社の鎮座する三日市を中心として人々が住みつき、農業を営んでいたことがうかがわれる。「三島さん」は、私たちの懐かしい心のふるさとなのである。
三、ガンドウ宮(大布施)
北野に一本の高くそびえた榎の木と灌木のおい茂った塚がある。土地の人々からガンドウ宮と呼ばれ、近寄
ることを恐れられている。私も祖父から、
「あのガンドウ宮に入ったらだめながいぞ。草にも木にも絶対触ったちゃだめながいぞ。さわったちゃ最後、 体が動かんがになったり、不幸になったりするがいぞ。」と教えられ、今でも不吉な場所として近寄らずにいる。ところが、勇敢にも地元の有志が昭和四年(一九二九年)に立ち入り調査を行なっていた。そこには立派な石龕(せきがん)があったという。
(注) *だめながいぞ…だめなんだぞ *石轟…石の神体や仏像を安置する箱
なぜこの宮が恐れられているのか、今では知る人もいないが、そもそものガンドウ宮に伝わる話はありがたい話で、どこにも恐れを抱く要素はない。本当に不思議なことである。
昔、北野にガンドウ宮という宮があって、回りは杉林に囲まれていた。この辺りは、雨が降るとよく洪水になり、田んぼや橋や家まで流された。ある年の洪水の時、この宮も流されてしまった。村の人たちが悲しんでいると、そこに永海というお坊さんが通りかかり、
「これはひどいことになった。私が力になってあげよう。」と言って、ガンドウ宮の側にあった石に地蔵さんを彫り始めた。昼夜分かたず、雨風の日も休まず、三〇日間かけて九体の地蔵さんを彫り上げた。永海はこの地蔵さんに、
「どうかこの村を洪水からお守りください。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えた。村人たちもいっしょになって「南無阿弥陀仏」を唱えた。このお祈りを三日も続けると、黒部川の洪水もぴたりと止まった。
この地蔵さんができてから、北野に洪水はなくなり、田畑はもとのようになって、米や野菜が取れるよ うになったと言われている。
(『黒部市誌』参考)
ガンドウ宮の近くに田畑を持つ我が家としては、感謝こそすれ、忌み嫌ってはいけないのだが、やはり怖い!。 (つい数ヶ月前、黒部市の事業として、このガンドウ宮が整備された。すぐ隣を車がたくさん通り、今は誰も「怖い」思えないくらい明るい。しかし、私は亡き祖父の言い伝えに従い、必ず入らないでおこう。)
四、この他の伝説
虫歯を直してくれるオクマハン(石田)
石田の石田新に神明社という神社がある。俗にオクマハンと呼ばれている。歯痛の時、自分の年の数だけ麻の幹を箸ほどに折り、好物を断って願うと、必ず直ると言われている。
歯痛を直す神様 (石田)
石田にある熊野社は、歯痛の人がこの神社に参詣し、梨か飴を「今後断ちます。」と神前に誓い、これを実行すると歯痛は直ると言われている。近郷の人々の祈願参拝が絶えない。
子供好きな天神様(三日市)
三日市下町の天神様を祀ってある神社は、どんな新しい鍵を掛けても必ず開くのだそうだ。この天神様は子供が好きで、子供たちを神社の中へ入れるために、鍵を外されてしまうのだという。
鳥歌いの名刀(田家)
田家の神田に天神宮という神社がある。御神体は刀で、毎年正月にこの刀が鶏のように鳴いたと言われている。 いつの頃か、どこかの神主さんが泊まった時から、その刀がなくなった。きっとその神主さんに盗まれたのだと噂されている。
蛇から旅僧を救った神様(大布施)
大布施の北堀切の神明社境内で、旅僧が昼寝をしていたら、呼び起こす者があった。辺りを見回しても人影はなく、また寝ようとすると起こされる。何気なく上を見たら、大きな蛇が今にもかみつくばかりであった。神明宮の神様が危機を救ってくれたのだということだ。
村の真中に移った神様(若栗)
若栗の神社が大越の山裾にあった頃、林をいっぱい持っている新左衛門という人の枕元に、神様が現れて、 「私は、この村の真中に行きたい。この山裾の大越がいやになった。」と言った。そこで、新左衛門が村の真中に宮と敷地を寄付して、神様を移したと伝えられている。
(以上『黒部市誌』、『越中伝説集』参考)
黒部川の大蛇の伝説
日本全国どこへ行っても、大蛇の伝説はあちこちにある。 水の豊富さ、清さにおいても日本有数の川に数えられている黒部川にも、もちろん大蛇は力を振るっていた。
黒部川は、北アルプスの中央部に位置する鷲羽岳を水源とし、延々と八五キロの一大峡谷を作って流れ下り、愛本で富山平野に出る。ここでは川幅が五〇メートル程もある。一番深いところは青く渦を巻いていて、目が回ってまともに見ることはできなかったと言われている。むろん橋など架けられる所ではなかったが、ここは越中路の上街道の重要な場所だったので、なんとしても橋が必要であった。
幾人もの人が「必ず架けてみせる。」と息込んで、この地を訪れるが、その恐ろしい水勢と川幅に肝をつぶして、逃げ帰ったそうである。しかし、加賀藩の厳しい命令により、多くの人々の知恵と力が集められ、ようやく完成したのは江戸時代の寛文二年(一六六二年)のことであった。その橋は橋脚を持たない世界にも珍しいというもので、長さ六〇メートル、幅一一メートルの名橋である。
愛本橋は県下の大河中に架けられた橋で最も古いものである。刎橋といって、一本の支柱もなく、「アーチ形」をした世にも珍しい構法によってできていた。岩国(山口県)の綿帯橋と甲斐(山梨県)の猿橋と合わせ て、天下の三奇橋と称されている。古来幾千年もここの水はあせたことがないと言われている。
このアーチ形の愛本橋は、今の朱塗りの鉄橋から五〇メートルほど上流に架けられていた。その場所のウラジロガシの木のある左岸の下の方に、川水の渦巻いている所があるが、そこに大蛇が棲んでいると言われている。濃い藍色をし、深水を思わせ、見るからに大蛇がいそうな気配がしんしんと伝わってくる。
愛本に棲んでいる大蛇は、とても元気がよく荻生をはじめ所々に出没している。
一、荻生のちまき(荻生)
『荻生のちまき』の話は「愛本の大蛇」の伝説として、広く人々に語り継がれている。
あのねえ、三月十八日に開帳があるが。その日、荻生の徳左エ門の娘が開帳が終わって、帰り道にてぬぐい一本拾うがいちゃ。そのてぬぐいはなあ、雨が降っても濡れず、風が吹いてもたたん、その娘一人にしか見えんてぬぐいやったが。他の人にはめんが。そって、それを家へ持って来て、母さんに、
「今日、きれいなてぬぐい拾うてきたがいぜ。」と言って、かぶっとったら、二、三日経ってから、きれいな、まあ役者みたいな侍が娘のうちへ訪ねてくらよね。その侍がこどんどまが遊んでおる所へ来て、
「荻生の中村の徳左エ門という家はここら辺にないか。」と聞いたが。そったら、こどんどまが、
「その家なら、この前やよ。」と教えてやったがいと。そったら、侍が徳左エ門の家へ入って行って、
「もしもし、あんたんとこの娘がてぬぐい拾うてこんだか。」と聞いたが。娘が側におって、
「私拾うた。」とゆうたが。そったら、その侍が、
「そのてぬぐい拾うたがなら、私ん所へ嫁に来てもろわんながいちゃ。」とゆうたん。娘は侍にどこのもんか尋ねたら、侍は愛本のものやと答えるがいちゃ。そったら、また娘は愛本のどこのもんか尋ねるが。侍は、
「おらは愛本の大蛇や。」とゆうたん。そったら、娘は、
「あや!おっとろっしゃ。どうしてそういう大蛇のとこへお嫁に行かれろか。」とゆうたん。そったら、
「てぬぐい拾うたがなら、どうあっても嫁に来てもろわんながいちゃ。」と繰り返しゆうたん。そのうち娘は大蛇に説得されて、愛本に連れて行かれることになったがいちゃ。
嫁に行って三年経った頃、こんだちゃ子供を産みに来るが。子供がいよいよ生まれそうになったら、母さんに、
「私これから納戸で赤ちゃん生むけど、絶対に納戸を覗いたらだめながよ。納戸を覗いたら、私こんで二度と家に帰ってこれんがになるがよ。」と一生懸命頼んだが。やがて納戸からウンウン聞こえるもんやから、母さんは大丈夫やろかと心配で、ひょいと覗いてしまったが。そったら、娘はたあらいのお湯の中にへいびを口から出しては洗ひ、口から出しては洗っておったが。母さんはびっくりして、悲鳴を上げてしまったがいちゃ。そったら、娘がすぐ出て来て、
「母さん、ほんやからい覗くなって頼んだがに。こんで私、二度と家へ帰ってこれんからね。」とゆうてへいびの子供を人間の格好にして、家を出て行ってしまったが。そって、愛本の橋の上から川の中にドボンと入って行って、二度と帰ってこんがになったがいと。
親どまは、悲しくておいおい泣くばっかりやったがいと。ほんでも、親孝行やった娘が別れる時に、何年経っても腐らんという珍しいちまきの作り方を教えてやったいと。親どまはそのちまきの店を開いて、ずっと幸せに暮らしたということながいちゃ。
(島忠一さんの話)
(注)*開帳があるが…開帳があります(「開帳」仏像を安置してある厨子を開いて秘仏を信者に見せること。年々の一大行事である宇奈月町・明日(あけび)の観音御開帳のこと。)*拾うがいちゃ…拾いました*見えんてぬぐいやったが…見えないてぬぐでした*めんが…みえない*拾ってきたがいぜ…拾ってきました*こどんどま…子供たち*聞いたが…尋ねました*教えてやったがいと…教えて上げたそうです*ゆうたが…言いました*来てもろわんながいちゃ…来てもらわなければならないのです*答えるがいちゃ…答えました*尋ねるが…尋ねました*おっとろっしゃ…恐ろしい*連れて行かれることになったがいちゃ…連れて行かれることになりました*こんだちゃ…今度は*産みに来るが…産みに来ました*覗いたらだめながよ…覗いたらだめですよ*帰ってこれんがになるがよ…帰って来れなくなってしまいます*頼んだが…頼みました*覗いてしまったが…覗いてしまいました*たあらい…タライ*へいび…蛇*洗っておったが…洗っていました*悲鳴を上げてしまったがいちゃ…悲鳴を上げてしまいました*ほんやからい…だから*出て行ってしまったが…出て行ってしまいました*帰ってこんがになったがいと…帰ってこなくなってしまったということです*親どま…親たち(両親)*泣くばっかりやったがいと…泣くばかりだったそうです*ほんでも…それでも*暮らしたということながいちゃ…暮らしたということです
黒部市荻生区中村の徳左エ門(または、時左エ門)の娘に、はっきりしたことは分からないが、おたみとおとせ(または、おとき・お竹)という二人の姉妹がいた。伝説中の娘は妹のおとせである。おとせは一八歳で 器量がよく、歌も上手で田植え歌などいつも歌っていた。また近郷近在で孝行娘の名が高く、近くの若者はもちろん遠い所の庄屋や肝煎り(名主)の一人息子など、結婚を申し込む者がたくさんいたという。そのおとせに愛本橋の下に棲む大蛇が思いを寄せ、ついに添い遂げるという話である。おとせと添い遂げるまでに、大蛇が美男子になって訪れたり、酒の一斗樽を預けておいたり、またてぬぐいを橋の下に置いた、拾ったなどの話が付け加えられている。他には拾ったてぬぐいを無くしたところへ、侍に化けた大蛇が尋ねて来て、どうあってもてぬぐいを返してくれと無理を言う。そして返せなければ娘をもらっていくとゆずらず、しばらく押問答の末、くれないのなら、この辺り一帯を洪水で野にしてやると言って脅す。ついに承諾せざるを得なくなって、大蛇の嫁になってしまったという話もある。てぬぐい一本で大変なことだ。
島さんの話によると、毎年行なわれる明日のお寺(宇奈月町の法福寺)の観音の御開帳は、近郷近在の人たちで賑わい、若い人のお見合いの好機でもあったという。
徳左エ門の娘おとせが、三月十八日の御開帳に出た帰り道、愛本の橋の下で一本のてぬぐいを拾って帰って 来た。二、三日して、見知らぬ侍姿の立派な男が家へ訪ねて来て、てぬぐいを拾ったのだったら、どうあってもと言って、娘を嫁にしてしまうのである。
娘は三年ばかり経った五月十三日に身重となり、「ちまき」を土産に家に帰って来る。いよいよ娘が産気付いた時、娘は自分の所には決して入らないでほしいと願う。しかし、見るなと言われると見たいのが人情である。その上、可愛い娘の初産を気遣い、また孫の顔を早く見たいと思うのも自然の気持ちであろう。両親はうなり声を聞き、心がせき、居ても立ってもおれずに納戸を覗いてしまう。
その時、美しいおとせは蛇体となって、蛇の子供を生んでいたのである。おとせは見られたと気付くと、すぐにもとの体になり、このように変わり果てた姿を見られたのでは、親子の縁もこれ限りと言って、家を出て行ってしまう。その時、孝行娘は自分が持って来た何年経っても腐らないという珍しいちまきの作り方を、教えてやるのである。それ以来この家ではちまきを作り、法福寺の御開帳や愛本姫社(宇奈月町)の御影様の賑わいの時はもちろん、黒部峡谷の温泉客の唯一のお土産として繁盛したという。ちなみにこのちまきの形は、子供の足跡を型どったものと言われている。
(注)*御影機…愛本姫社の「乗如上人の御影機迎え」というお祭り
おとせは、一説には御開帳で知り合った若者と、親に承諾なしに一緒になって、家を出て行ってしまう。やがて、美しい子供を背負って徳左エ門の家へ帰って来るが、何かの理由で、再び家にはもう戻らないと言い残し、出て行ってしまったとも言われている。
なお徳左エ門の家は現存せず、北海道へ移ったらしい。
『荻生のちまき』の話は、盆踊りの唄として謡い継がれているが、歌詞は定かでない。中島太一氏が総合されたものは次の通りである。
春は三月十八日に
荻生中村徳左エ門さの娘
明日開帳を参ったもどり
不思議なるかや愛本橋で
紙に包んだてぬぐい拾うた
拾うた所で広げて見れば
三波四波の水波ちらし
恋と心の川瀬が走る
拾うて二、三日経たん矢先に
若い男が大小さして
軽い振分け旅ごしらえで
紺の股引びろどの脚絆
脚絆甲掛切れ緒の草鞋
ここはどこぢゃと子供衆に聞けば
ここは荻生の中村でござる
荻生中村の徳左エ門さはどこじゃ
もう少し向こう行きゃ徳左エ門さがあるぞ
ごめんなされと腰打ちかける
若い人じゃがいずこの方じゃ
恥を言わなきゃ礼は言えませぬ
わたしゃ愛本大蛇でござる
わたしに呉りゃれよおとせを呉りゃれ
おとせおとせと二声三声
おとせ驚くこれゃ何事じゃ
愛本大蛇は見てさえ知らにゃ
嫁になどとは思いもよらぬ
これは何言う二、三日先の
七つ半どき愛本橋で
固い約束したではないか
紙に包んだ手じるしやそれじゃ
(注) *明日開帳…「明日開帳縁つなぎ」という行事で、いつまでも破綻にならないように祈った*振分け…二つに振り分けた荷物*脚絆…歩きやすいようにすねに巻き付ける布*甲掛…手足の甲にかけて、日光・ちり・ほこりなどさえぎる布
愛本橋(宇奈月町)のたもとには『荻生のちまき』とほぼ同じ内容の話が『愛本のちまき』として伝わっている。大正年代までこの左岸に一軒の茶店(徳左エ門茶屋)があり、そこで売られていたちまきも大蛇に嫁入りした娘が教えたもので、何日置いても腐らないといって賞味されていた。この話の娘の名は、おとせではなくお光で、年は一六で徳左エ門の一人娘(民謡では平三郎の娘)である。この話も民謡として謡われている。
愛本のちまき
愛本見たか橋見たか
淵の大蛇の影見たか
淵の渦巻きや風のて騒ぐ
茶屋の平三郎の一六娘
娘のお光はきりょう娘
娘どこへ行った夜の間に失せた
淵じゃその夜から波騒ぐ
娘三年目にひょいと帰って来た
身も体で産みに来た
見まいうぶやを親御が見たら
生んだ子供は蛇の子ども
見ない約束見られた娘
娘泣き泣き淵瀬へ帰る
帰るみやげに教えたちまき
愛本ちまきはよいみやげ
その茶屋付近にお光を祀った愛本姫社が建てられている。この話は江戸期に発生した伝説だったと言われている。
二、箱根長者(荻生)
黒部川の大蛇は、たいそう人間の女の人が好きだったようだ。 荻生のおとせ、愛本のお光、そして今から触れる荻生の箱根長者の娘にも恋いこがれ、笛を吹く美青年に化けて結婚を申し込む。親に反対されても諦めず、愛本村の粕塚長者の一人息子を操り、みごと好きな人を手に入れてしまうのである。
ある秋の日、箱根長者が娘を連れて、黒部川のほとりを散歩していた。木陰を抜け出ると、岩の上で美しい青年が笛を吹いていた。娘はその音色の美しさにうっとりし、美しい青年に見とれていた。長者は娘をせきたてて、通り過ぎようとすると、青年が、
「ちょっと待ってくれっしゃい。」と声を掛けてきた。長者はそ知らぬ顔をして行き過ぎようとした。すると、青年はつかつかと近付いて来て、
「突然ながやけど、あなたの娘さんをお嫁にもらえんまいか。」と言った。長者は、
「なにゆうとるがけ、ばかばかしい。おまえのようなもんに大事な娘をやれるもんか。」と邪険に断わった。すると青年は、
「そうですか。仕方ないですちゃね。でも私は一度思い込んだことは、どこまでもやり遂げる男ながね。いつかきっと娘さんをもらいに行くから、その時になってもあわてんように、十分気をつけとってくれっしゃい。」と言って、姿を消した。
一方、愛本村の粕塚の長者に一人息子がいた。近頃あまり口もきかず、物思いにふけっていた。父親が心配して尋ねてみると、息子は、
「好きな人がおるがです。箱根長者の娘をもらってくれっしゃい。」と打ち明けた。父親は、願ってもない良縁だと思い、さっそく箱根長者へ使いを走らせ、結婚式の日取りなどを簡単に決めてしまった。箱根長者の娘は笛を吹いていた美青年に心をひかれていたが、親の言いつけに従って、粕塚の長者の息子の所へ嫁入りすることになった。粕塚の長者へ嫁入りしたその夜、花婿は花嫁を連れたまま行方が分からなくなった。長者たちは二人で内緒で旅行にでも行ったんだと思って、しばらく様子をみることにした。しかし、二人はいつまで経っても帰ってこなかった。心配になり探し回ったところ、近くの山の中で花婿が死んでいるのが見つかった。花嫁はいくら探しても、行方が分からなかった。
そうしているうちに一年は過ぎていった。そこへ思いがけなく花嫁が帰って来た。長者は驚いて訳を聞 くと、娘は、
「その訳を話したら、私は人間界から消えてしまわんながです。」と言うばかりだった。そして、
「実は、お産のために帰って来たがです。」とうつむいた。やがて臨月になり、娘が産室に入る時、「産室を絶対に覗かんといてくれっしゃい。」と頼んで、板戸をしっかり閉めた。しかし、長者はこっそりと戸の隙間から覗いてしまった。すると、娘は蛇の子どもを生んでいたのである。長者はびっくりして、その場で気絶してしまった。娘は産室から出て来て、
「あれだけ頼んでおいたがに、私の秘密を覗かっしゃった。私の主人はいつぞや岩の上で笛を吹いとった青年で、黒部川の主ながです。私が粕塚長者の家へお嫁入りした時、黒部川の主は粕塚長者の息子と入れ代わったがです。とても信じられんと思うけど、私はもう人間界の者ではなくなったがです。」と言うなり、黒部川の深い淵に姿を消してしまった。
それから、三日後に降りだした雨は大水になり、長者は命からがら川上から流れてきた小舟に乗って能登に流れ着いた。その後、一家は能登に住み着いたということである。
(『口碑伝説』参考)
箱根長者を救ってくれた小船は、娘の計らいではないだろうか。時代ははっきりしていないが、今の長屋の変電所の方に続いている丘の付近に、箱根長者という富豪の家があったと言われている。
この箱根長者にはもう一つの話が伝わっている。それには大蛇は出てこないが、黒部川が大洪水になるという話である。
箱根長者と下立(おりたて)の酒造家の粕塚長者が、縁談を結ぶことになった。結納の日に粕塚長者では、家から箱根長者の家まで、数限りない程の五斗俵を並べ、大勢の共の者を従えて行列を作った。行列の通った後は、道端の見物人にお祝いとして、この米を分け与えた。
数ヶ月が過ぎて婚礼ま近になると、箱根長者では結納の時に負けまいと、驚く程の餅米で三つの大釜に五つの角せいろをかけて、三日三晩も餅をつき続けた。たくさんの鏡餅ができあがり、婚礼の当日、箱根長者の玄関から粕塚長者の玄関まで、その鏡餅が敷き並べられた。この餅を足場にして嫁入りの行列が進んで行った。すると、神様があまりの贅沢に怒られたものか、にわかに空がかき曇り、滝のような雨が降り、たちまち黒部川が大洪水になってしまった。敷き並べられた餅や人はもちろん、両長者の屋敷も跡形もなく流れてしまった。
その後、箱根長者の屋敷跡にあった木の根を掘った時、金の仏様が出て来たそうである。今もこれが北海道のある場所に安置されていると言われている。
(『口碑伝説』参考)
三、この他の大蛇の伝説
大杉になった大蛇(荻生)
昔、荻生の村にたちの悪い大蛇がいた。この大蛇は毎年梅雨明けになると、大雨を降らせ、田畑を流す大洪水を起こした。村の人たちは「どうにか退治をしたい。」といつも相談していた。しかし、この村の大蛇はめったに姿を見せない。村の一番の年寄りの九郎平に相談したら、
「こりゃの、生地の人たちゃ漁に行くとき、称名寺さんの彼岸団子持って行くねか。それ持って行きゃ、どんなしけにおうても、怪物におうても安全やと。だから、称名寺さんの彼岸団子をいっぱい作って、その団子を地面に投げながら、村の外側から囲んでいってみっしゃい。ほって、だんだん内側に追いつめりゃ、大蛇はきっと姿を現わすに違いないちゃ。」と教えた。
村中総がかりで、九郎平の言った通りに彼岸団子を撒きながら、大蛇追いをした。村の中心にある称名寺の境内まで追い込むと、大蛇はすくっと仁王立ちになった。頭が八つ、尾も八つ目は輝いて、体には苔が生え、口から出す舌先は赤い炎になり、血が垂れていた。
この時、 称名寺の本堂からお彼岸のお経が聞こえてきた。ありがたいお経の力であろうか。大蛇は突然、 「数々の悪行を払うために、寺の木となって、村の人々の田畑を守ってあげるちゃ。」と言って、西空に沈む夕日に影を映して、あら不思議や、一本の大杉になり、八つの頭と八つの尾は枝になってしまった。
今もこの大杉をやまた杉(八つ頭杉)と言い、西方浄土に向かって、洪水がないように村を守っているという。
(注)*おうても…会っても
池尻の大蛇(東布施)
池尻の池崎家の上の方に池がある。もとはもっと大きかったというが、この池に大蛇が棲んでいたという。 毎年正月に、鏡餅を炊事場に供えると、蛇の子どもが寄って来て食べていった。ある日、大蛇が門前に来て、 「長々お世話になったちゃ。これから愛本に行きますちゃ。」といとまごいに来た。その頃から大きかった池も、あせて今のように小さくなったということである。(以上『黒部市誌』、『黒部川の自然と文化』参考)
黒部川の大蛇は、いろいろな 所へ出かけ、いろいろなパフォーマンスをやってくれる。昭和九年の大水の時は、大工が誤っ鎚を愛本橋から落とし、それが大蛇の頭に当たったのが原因だと広く語られている。さらに、それから間もなく、ある婦人会員が小川温泉に来ていたら、若い美男子がひたいに包帯をして、湯治に来ていた姿を見たという。その男が愛本の大蛇の化身ではないかと、まことしやかに新聞を賑わしたこともあったそうだ。ああ、なんと良き時代だったのだろう。現在は、大蛇の棲み場所は愛本堰堤の中将松の下、用水取り入れ口の付近だと言われている。
どうして、愛本橋の下に大蛇が棲みついたのだろうか。愛本橋の置かれている位置は、川の水が山地から平地を出た所に形成された扇状地の要にあたり、最も重要な場所である。この地に異変があれば、稲作をはじめあらゆる農作物は枯れ朽ちてしまう。またひとたび川が暴れれば、人々の生活は水の中に飲み込まれてしまう。黒部川に対する畏怖の念から、黒部に生活する人々が愛本橋の下に、大蛇を棲まわせたのではないだろうか。蛇は遠い神代の大昔から日本の各地至る所に棲み、よく知られている生き物である。神話に出てくる素盞鳴尊が八岐大蛇を退治する話や大和 (奈良県)の三輪山伝説や豊後 (大分県)に伝わる人と大蛇との婚姻によって生まれたという勇士緒方三郎伝説などが有名である。
私たちが大蛇と言っているのは、池の主、すなわち水の底に棲む霊物ということで、人が幻にもめったに見ることのできないものである。ただ蛇のように想像し、中世以降に名が出てきたものに過ぎないという。「大蛇」と称して、蛇とも龍ともつかぬ霊物が淵や池の底に棲んで、農民たちに重要な田の水を威厳を持って支配したということも、考えてみれば実に妙な話である。しかし、私たちはそういう迷信的な信仰を古くから持っていた。
どういうわけで、美しい処女の娘が特に大蛇の嫁に望まれたのか。いずれも田畑の水を程よくするために、大蛇の心を執り成そうとするためだったのだろう。美しい娘はどうしても必要な登場人物であった。五月は水の神様の力の最も必要な田植えの時期である。柳田国男氏によると、水の神である大蛇が作り方を教えたというちまきを、五月五日の節句に結びつけたのはそういう理由からではないかということだ。
大蛇に限らず、実にさまざまな動物が私たちの生活を取り巻いている。いったい何故だろう。人間が天然自然の現象が持つ計り知れない力や不思議を、自分たちで想像した動物のせいにして、不安を解消してきたのではないだろうか。さらにその動物に自分たちの願いの実現さえも、期待するようになっていったのではないだろうか。
しかし、やがてこの信仰は時代の移り変わりと共に、少しずつ変化していく。人々はわが子かわいさに、神の御用に召されることを恐れ、不安を抱くことになった。そこで、その「神」を単なる動物、またわ恐ろしい怪物だと、自ら思い込むように仕向けていったのではないだろうか。
「(水の神が)単に人間の娘には蛇としか見えなかったというだけである。然るにそれをただ霊ある蛇体が、人の美しい少女に恋い慕うものと解するようになって、次第に我々の忌みは怖れとなり、これを災難の如く厭い避けて、ついには祈祷や武勇の力を以て、撃退しまたは報復したという伝説を生じ、さらに一方には臼を負うて水に堕ち沈み、あわれな辞世の歌を詠んで流れたという、猿聟入りの童話をさえ生ずるに至った。これ疑いもなくこの国人の信仰の変化の痕であった。」(柳田国男氏)