編集・発行:  楽門舎編集室 シャイニング・スモール・ストーン

創刊号(1999 年11月1日) 第2号 (2000 年 5月1日) 第3号 (2000年12月1日)第4号 (2001 年12月1日)

「楽門舎」21人の醍醐味の試み。「みゃらくもん」って富山のコトバ。酔狂な人、自由人のことを「身が楽な者」というらしい「みがらくなもの⇒らくもの⇒らくもん」ということだ。ここに集まったのはそんな身が楽で、自由で、酔狂なヒトたち。でも、それだけじゃない。皆が楽で、楽しい、それが「楽門舎」。

「書物にできることはいろいろある。知識や情熱を授け、一時の楽しみを与え、時には怒りを煽る。しかし、結局のところ、書物というものの最高の機能は、幸福感を伝えることだ」と池澤夏樹は言っていたそうな。「楽門舎」が何を授け、与え、煽るのかは、読んだ人が決めること。少しでも、みゃーらくな幸福感が伝わってくれていたらいいんだけれども。(あとがき/slt)

<目次>

ノンフィクション物語(その一)          さとり

ノンフィクション物語(その二)  メアリ・ポピンズになった少女

ノンフィクション物語(その三)  ホシホウジャク

ノンフィクション物語(その四)  Q君は何者だったのか!

手控え(その一)         日本の年中行事や伝統行事

手控え(その一)日本の年中行事や伝統行事

日本では、お正月から大晦日まで一年中さまざまな行事が行われています。節分や七夕などは、長い歴史を持つ伝統行事です。他にも、日本の価値観や文化を取り入れて定着した欧米発祥の行事もあります。
欧米から伝わり、日本の文化を取り入れながら浸透した年中行事もあります。たとえば、毎年多くの人が楽しんでいるハロウィンやクリスマスなどが良い例です。

1月は伝統的な年中行事が多い月です。

★お正月

お正月は年神さまを迎えて、新年が良い年になるように祈る伝統的な年中行事です。年神さまは幸せをもたらす神様で、玄関に置かれた松の飾り「門松」を目印に各家庭にやって来られます。

日本では1月1日を元日といい、朝の時間帯だけを元旦と呼びます。神社や寺に初詣に行って新年の無事を祈ったりするのが風習です。また、縁起の良い食べ物から成る「おせち料理」を食べたり、災いを払うとされる薬酒「お屠蘇」を飲んだりする文化もあります。

お正月は1月1日〜1月7日まで続き、この期間を「松の内」と呼びます。いつまでをお正月とするかは地域によって異なり、関西地方では1月15日までを松の内とするのが一般的です。

★七草の節句

1月7日の七草の節句は、7種類の野菜や野草が入ったお粥を食べて、一年間の健康を願う伝統的な年中行事です。七草粥は正月行事として定着していますが、本来は1月7日の「人日」の日に行われる「人日の節句」の行事で、五節句のひとつです(五節句:江戸幕府が定めた式日で、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽をさす)。「せり・なずな / ごぎょう・はこべら / ほとけのざ / すずな・すずしろ / 春の七草」

★鏡開き

お正月に年神さまや仏様に供えた鏡餅を下げ、新年の健康を願って食べる行事を鏡開きといいます。1月11日に行う地域が多く、乾燥して硬くなった鏡餅を木づちで割って、かき餅や雑煮、汁粉にするのが風習です。

★成人式

日本では、大人の仲間入りを果たした新成人を祝福するために成人式を行います。1月の第2月曜日が成人の日として祝日に指定されており、多くの人が各市町村で実施する成人式に参加します。成人式の対象は従来通り20歳になった人とする市町村が多いようです。

2月には、伝統行事である節分と欧米から伝わった年中行事であるバレンタインデーがあります。

★節分

節分は2月3日に行われる伝統的な年中行事です。「鬼は外、福は内」と声をあげながら豆をまく行事です。自分の年齢と同じ数の豆を食べれば魔除けになるとされています。豆を投げる人とお面を被り鬼を演じる人に分かれて豆まきをするのが一般的です。ほかにも、魔除けの意味があるとされる柊やいわし、鬼を退治するためのあたり棒を飾る風習もあります。

★バレンタインデー

2月14日に行われるバレンタインデーは、キリスト教圏から伝わった年中行事です。日本では女性から男性へチョコレートを贈る行事として浸透しています。昨今では友人やお世話になった人にもチョコレートを贈るようになりました。

3月には、桃の節句やホワイトデー、春のお彼岸といった年中行事があります。

★桃の節句

3月3日の桃の節句は、女の子の健やかな成長を願う伝統行事です。ひな祭りとも呼ばれ、平安時代に年中行事になりました。江戸時代には「ひな人形」という結婚式を模した日本人形を飾る風習が生まれ、現代まで受け継がれています。ひな人形のほかに桃の花や菱餅を飾り、ちらし寿司やはまぐりのお吸い物を食べて祝うのが風習です。

★ホワイトデー

3月14日のホワイトデーは、バレンタインデーから派生した年中行事です。バレンタインデーにもらった贈り物のお返しに、マシュマロやキャンディー、クッキーなどのお菓子を送ります。なお、ホワイトデーは日本や韓国、台湾などの東アジアのみに見られる行事といわれています。

★春のお彼岸

春のお彼岸の期間は、昼夜の時間が等しくなる「春分の日」と前後3日間を合わせた合計7日間です。年により春分の日が異なるため、お彼岸の期間も変わります。もともと彼岸は、仏教の悟りを開くための修行を行う日でした。現代の日本では、春のお彼岸は春分の日の前後に行う、お墓参りや法要などの年中行事を指す言葉として使われます。彼岸の期間には、先祖のお墓にお参りをして掃除をしたり花を活けたりします。仏壇のある家では、先祖の好きだった食べ物や「ぼた餅」というあんこ餅をお供えする場合もあるようです。

4月の年中行事には、花見があります。

★花見

桜の花を眺めて楽しむ花見は、開花時期が早い地域では3月上旬、遅い地域では5月上旬ごろに行われます。地域や桜の種類によって開花時期が異なります。桜を楽しむ光景は日本の春の風物詩といえます。

5月には、伝統行事である端午の節句とアメリカ発祥の年中行事である母の日があります。

★端午の節句

5月5日の端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈って行われる日本の伝統行事です。鎧や兜を身にまとった五月人形を飾ったり庭にこいのぼりを立てたりして、男の子が元気に成長するように願います。また、災いを避ける効果があるといわれている菖蒲湯に入るのも風習です。なお、5月5日は子どもの幸せと健やかな成長を願う「こどもの日」でもあるため、子どもの性別に関係なく健康を願って、お祝いをしたりごちそうを食べたりする家庭が多くあります。

★母の日

5月の第2日曜日の母の日は、母親に感謝を伝える日です。赤いカーネーションや手紙などを贈り、母親を労います。もともとは、アメリカのある女性が亡き母の追悼のために、1908年5月10日に白いカーネーションを配ったのが始まりといわれています。日本では、1915年に初めて母の日の行事が催され、徐々に広まっていきました。

6月には、衣替えとアメリカから伝わった年中行事の父の日があります。

★衣替え

衣替えは、季節に応じた衣服を出しやすいようにクローゼットを整理する年中行事です。平安時代に衣替えという行事が生まれました。

★父の日

6月の第3日曜日は、父親に感謝を伝える父の日です。アメリカ発祥の年中行事で、日本には1950年代ごろ伝わり、年中行事として一般的に広まったのは1980年代とされています。

7月の年中行事には、海開きや七夕があります。

★海開き

海開きは海水浴場を一般の人に開放する年中行事で、多くの場合、安全と商売繁盛を祈願する神事が行われます。地域によって異なります。本州では、7月上旬〜中旬に行われるのが一般的です。

★七夕

七夕は日本の伝統的な年中行事で7月7日に行われます。7月7日のみ夜空で会うことが許されている、織姫と彦星の伝説です。もともと日本にあった7月7日に織った着物を神様に供えて豊作を祈る行事と結びつき、七夕になりました。七夕では、笹竹に願い事を書いた短冊を結びつけるのが風習です。織姫と彦星がいる星空に向かって子どもの成長や健康、習い事の上達を願うと良いとされています。

8月には、夏祭りや花火大会、お盆といった伝統行事があります。

★夏祭り・花火大会

7月〜8月ごろに日本各地で開催されるのが、夏祭りや花火大会です。地域に密着した小規模な夏祭りから、全国各地の人が見に来る大規模な花火大会まであります。夏祭りは豊作を祈ったり神様に町の様子を見せたりするために始まった年中行事です。花火大会はお盆の時期に合わせて行われる場合が多く、送り火のように鎮魂の意味を持っています。

★お盆

お盆はおおむね8月13日〜8月16日ごろに行われる伝統的な年中行事で、先祖の供養を目的としています。
日本では「亡くなったら死後の世界であるあの世に行く」と考えられており、お盆の間だけ魂が現世であるこの世に帰ってくるという考えが一般的です。先祖があの世とこの世を行き来するための乗り物をキュウリやナスで作ったり、帰りを見送るために「送り火」を焚いたりします。

また、お盆の前後に催されるのが「盆踊り」です。参加者は円になって櫓を囲んで踊り、死者や先祖の魂を弔います。

9月には、重陽の節句や月見、秋のお彼岸などの伝統行事があります。

★重陽の節句

9月9日に行われる重陽の節句では、栗ご飯を食べたり菊を漬けたお酒を飲んだりします。菊が使われる理由は、魔除けの効果があるといわれているからです。湯船に菊を浮かべた「菊湯」に浸かったり乾燥させた花びらを入れた「菊枕」で寝たりする風習もあります。重陽の節句は、平安時代から行われている年中行事です。昨今ではあまり馴染みのない伝統行事ですが、日本が旧暦を使用していたころは盛んに行われていました。

★月見

日本では秋になると、月を鑑賞する月見という年中行事が行われます。月見は、平安時代にはすでに行われていた伝統的な行事です。きれいな月を鑑賞するだけでなく、ススキや月見団子、収穫した農作物をお供えして豊作を願います。特に、旧暦の8月15日にあたる日を「十五夜」といい、人々はこの日に見える月を「中秋の名月」と呼んで愛でてきました。

★秋のお彼岸

秋のお彼岸の期間は、昼と夜の時間が同じ長さになる「秋分の日」と前後3日間を合わせた合計7日間です。春のお彼岸と同じく、年により期間が変わります。先祖の魂を弔うためにお墓参りや仏壇掃除を行うのが風習です。なお、秋のお彼岸には仏壇に「おはぎ」というあんこ餅をお供えします。春のお彼岸のぼた餅と秋のお彼岸のおはぎは、実は同じ食べ物です。ぼた餅は春に咲くぼたんの花に、おはぎは秋に咲くはぎの花にちなんで名付けられたといわれています。

10月には、欧米から伝わった年中行事のハロウィンと伝統行事である紅葉狩りがあります。

★ハロウィン

アメリカやヨーロッパなどで行われているハロウィンは、日本でも有名な年中行事です。日本では、近年になってから仮装する習慣や「トリック・オア・トリート」の文言が浸透してきました。10月31日になるとさまざまなハロウィンイベントが開催され、多くの人が参加します。日本のハロウィンは、子どもにお菓子を配ったり家族や友人同士で仮装を楽しんだりする行事として人気です。

★紅葉狩り

紅葉狩りは、赤や黄色に色付いた落葉広葉樹の葉を鑑賞する年中行事です。紅葉狩りで鑑賞する樹木には、楓や欅、銀杏などがあります。紅葉狩りは、奈良時代や平安時代に貴族の間で始まったといわれています。江戸時代になり庶民にも広まり、食べ物を持って紅葉狩りに出掛けるのが一般的になったようです。

11月は、伝統行事である七五三が行われます。

★七五三

七五三は子どもが3歳、5歳、7歳になったときに、正装して神社に参拝する伝統的な年中行事です。一定の年齢まで育った感謝と、その後の成長と健康を願って行われます。

12月の伝統行事には、冬至や大晦日があります。また、欧米から伝わったクリスマスも、日本の価値観や考え方を取り入れつつ定番となった年中行事です。

★冬至

日本では最も夜が長い日を冬至といい、かぼちゃを食べて栄養を付けたり、柚子を浮かべたお風呂に入って体を温めたりします。昔の日本では冬になるとほとんど農作物が収穫できなくなるため、保存が利き栄養価が高いかぼちゃは貴重でした。また、柚子は皮に血行改善や風邪予防の効果があるとされており、冬に重宝される果物といえます。かぼちゃや柚子を使う風習がある冬至は、厳しい寒さを乗り切るための生活の知恵が生きている日本の伝統行事です。

★クリスマス

世界各国に広まっているクリスマスは、日本でも多くの人が楽しむ年中行事です。海外と同じように子どもにはサンタクロースからの贈り物があります。クリスマスは、子どもから大人まで幅広い世代に親しまれている行事です。

★大晦日

1年の締めくくりである12月31日を大晦日といいます。年神さまを祀る準備を行い、迷いや苦しみを断ち切る除夜の鐘を聞いて新年が来るのを待つ行事です。掃き掃除を行ったり「年越しそば」を食べたりと、大晦日は家にこもって過ごすのが良いとされています。

大晦日から元旦にかけて、神社にお参りに行く「初詣」をする人も多くいます。

                                                  「WeXpats」参照

ノンフィクション物語(その四) Q君は何者だったのか!

3年前(2020年)のことである。私が施設のある部署の責任者として採用面接を行った。職種は、事務とライフサポートである。日勤帯の仕事で、ワード、エクセルできること、事務系の仕事をこなしてもらうので大卒、専門学校卒と、求人欄に記載してあった。5~6年前は募集と同時に何人もの面接者が来たが、このころは何度広告を出しても応募者0人、1人いう人材不足という状況が慢性化していた。その頃は、採用の基準が情けないことに、「言葉遣いができるだけ標準語であること」「(面接者に)立って挨拶ができる」「服装がきちんとしている」「履歴書の確認で不思議な箇所がないか」としていた。Q君は27歳。身長は低い方だが大柄タイプ。言葉遣いは標準語、服装はスーツ、大学を卒業して一般企業に5年勤務(1か所)。退職理由は「何か資格を取って、人と関わる仕事をしてみたい」とのことで、当施設の採用基準には達していたので採用となった。

最近の採用面接では、経歴のこと、退職した理由、家族関係などあまり聞いてはならないとの労働基準局のおたっしがあったので、面接ではあまり人となりは分からない。入職後、オリエン中に面談を行う。

「母親がうつ病。父親がてんかん病。姉2人いる。家族と食事はしたことない。朝は食べない。昼はコンビニのプロテイン食品・おにぎり、夜はおにぎり。」

「前の会社では上司に『死ね』と言われた。そのおかげで成長できた。」

など、淡々と話す。ご両親の病状を聞くも「一緒に食事もしないので、分からない」という。趣味の話を聞くとゲームの大会でいいところまでいったとのこと。もっといろいろ話を引き出そうとするも、Q君の人となりはつかめない。

ただ、パソコンは使えそう。オリエンを受けてこの仕事ができると思うか尋ねると、「頑張ります」と言う。嫌な予感が……。

言葉遣いはやさしい、人当たりはよさそうに思えたので、順番に仕事をしてもらおうと思うしかなかった。

入職して間もなく、Q君がエレベーターの中で他部署のフロアリーダーの職員に「Hさん、今日は休みじゃないんですか。ちゃんと残業もらっていますか」と唐突にフレンドリーに話掛けたとのこと。

後日、「その表現は誤解をまねく。リーダーで管理側の人に軽率な話をすると危険な職員と思われ信頼されなくなる」と指導した。一応、本人は理解したと言った。先輩Nさんが「昨日、口内炎がひどすぎて口が開けられないほどだった」と話していたので、「昨日休んで受診すればよかったのに」と私が話した。その時、話に割って入ってきて「有給があるんですから週3にすればいいんですよ」と唐突に言ってきた。「有給はそんなに簡単にとるものではない」ということ即時指導し詳しく説明する。

何度ルールを説明しても自己判断で対応することが度々あり、そのたびに何でいけないのかという表情をする。分かっていることがどこまでなのか周りも頭を悩ますことたびたびであったが、同年代の今系の可愛いUさんと横並びの席でウキウキしながら仕事をしていた。その状況は入職して1年後(6月頃)、Uさんのさずかり婚を知るまで続いた。

その1か月後、元気がない、反応に乏しい、指示が入らない、分からないことが多すぎる、同僚が仕事の話をしても「ハイ」とは言わず「どこが悪いんですか」と言ったり、話しかけっても返答がなかったと報告がある。

???Q君と私の会話エピソード1

私:「元気がないと聞いていますが、何かありましたか。」

Q:「小さいことの積み重なりから。疲れもあると思います。」

私:「積み重ねって具体的にどんな事か言ってみてほしい。」

Q:「イライラ感が増して、このままだと声を荒げてしまうかもしれないと、このままだと爆発しそうと思い、皆さんの顔を見ないようにしていました。目を合わさないようにしていました。」

私:(啞然!ぐっと抑えて)「周りの人がどうしたんだろうと思ったり、仕事をチームでできなくなったり、周りの人を振り回していることになります。貯めないで、その都度話してください。」

Q:「細かいことで、自分もできているかと言えばできてないかもしれません。この期間だけ、このような態度をするの許してもらえませんか。」

私:(唖然!ぐっと抑えて)「職場は仕事をするところ。一人一人の感情で態度を変えると周りの人もどうしていいか分からなくなり、仕事もスムーズにいかくなります。一つでいいので小さい積み重ねを明らかにしてください。」

Q:「共通の仕事で、例えば消毒の容器になくなったら液を補充するのですが3本しかなくなっていたのに補充されておらず、もっと早く見た人が補充すればいいのにと不満に思ったりする。」

私:「気づいたときは、その都度言ってください。今日、話したこと理解できましたか。」

Q:「分かりました。」

近いうちに面談する約束をする。

それから10日後、同僚職員が他部署との食い違いがあり、Q君にトレースをしたところ、質問についての返答はなく、Q君は「全部僕のせいにしておいてください」と言い、話にならなかった。その時も、まずは何があったか確認して、間違いがあったら改善する。仕事はPDCAサイクルを回していくものと指導する。それから1か月後(9月2日)18時17分突然泣きの電話がある。

???Q君と私の会話エピソード2

Q:「明日、休ませてください。もう限界なんです。」(しゃくりをあげて泣きながら言う。)

私:「なぜ、電話じゃなくて日中に言えなかったですか?」

Q:「言えませんよ」と言う。明日、とにかく出勤して話しを聞かせてほしいと伝えるも、「どうしても休みたい。」

私:「仕事の向き不向きがあるので仕事を辞めたいってことなんですか?」

Q:「そんなことはありません。昨日ぐらいから、満足した仕事ができなくなりました。ここの仕事はやりがいがありますが、期待に沿えなくて申し訳ないと思う気持ちでいっぱいです。いろいろ重なって、期待に沿えなくて。」

私:(心の声)「現在、Qの仕事は当初考えていたものを他職員にシフトして負担になるような業務はないはずだが・・・・・?」

Q:「自分が頑張りすぎたんだと思います。自分が一生懸命やってるときに他の職員の方はおしゃべりをしていたりすると我慢できなくなる。」

私:「現在の仕事はコロナの状況になり、業務が簡素化しています。また、いろいろな活動も縮小しています。なので、全体的に余裕があり、リーダー業務以外ほぼ0残業できています。産休に入るUさんのフォローに2か月間、1人プラスの7人で2か月間行うこともあり、一人一人の負担は軽減されています。以前言っていた『このままだと爆発しそう』という精神状態の人はヒューマンサービスには向いていないと思います。今後は一定のテンションで働けるように気を付けてほしい。ゲームを夜通ししたり、ゲームの中の戦いの中で気持ちを浮き沈みさせたり、それを職場に引きずったりしてはいけない。」

Q:「ゲームは夜通ししてませんよ。明日はUさんも休みで、請求業務もできないので、迷惑かけないと思います。」(けらけら笑う)。

以前金曜日はゲームの大会がよく行われるとQ君から聞いていた。明日は金曜日だ。この内容を今までの行動から考えると、2日前から30分、1時間と残業を希望していた。明日でもいいのにと思う内容だったが。今から考えると金曜日に休む準備だったと思われる。

仲の良かったUさんが結婚したからか、最近の様子は心ここにあらずの様子。話の内容も、思いついたことをポンポンと言って脈絡がない。周りの職員からも聞いているが、Q君は自分では気づいていないのだろうが、嘘を平気でつく、口から出まかせを言う。施設内で長い時間いなくなる。翌週、Q君に今後どうしたいか確認する。

Q君は「頑張りすぎたので、自分の気持ちを整えてしばらくやってみようと思います」は平然と言う。何度言っても、仕事を手順通りできず、記録も残さない、忘れてしまう、申し送りしない…仕事はかなり減らした。物品注文、移動販売、荷物配達、書類の印刷、パソコン打ち込み、写真掲示関係が主な業務であるが、それでも無責任さが目立ちミスを繰り返す。それでも自分から仕事を辞めたいとは言わない。人を退職させることは難しい。昨今は、労働基準局は企業に厳しく労働者だけに甘い。だから、社員は言いたい放題、退職を押すと訴えられる。

2022年に入り、一層Q君の仕事のミスはありえないものになってきたが、言い訳が的を外れているが、立派に話す。

郵送の送り先を自分で言ったと住所と、実際に書いた住所が違い返送されたり、入居者さんの注文した商品がない時、確認もせずに適当に別の商品を注文し請求する等、数えればきりがない。毎日のように起きるミス。「多分、なんにも、なんにも分からなくなっているような感じ」と周りの職員は不安がるも、本人は前向きに「すいません。頑張ります」と言い、仕事は続ける様子。周りの職員でダブルチェックを徹底しミスが起きてもフォローできる体制をとった。

この年の10月、施設が老朽化のために廃業することになり、職員は退職か転勤かの選択となる。わが部署は相談課、総務・経理等の管理業務をすべて行う部署なので入居者の転居や職員のいろいろな手続き、経理関係等、これからの半年は怒涛のような業務となると不安が大きい。その中、6人部署の1人のベテラン職員が前倒しで退職することとなる。その職員は総務・人事など中心にしていたので、残された職員はオリエンを受けるも、今後について不安が大きい。Q君は即戦力にならないので退職するのであれば、半年間だけでも派遣職員を採用したいと思っていたが、面談でのQ君は「30歳になるので、これからの仕事を考えたいので転勤は遠慮する。閉所する最後まで頑張ります」と言う。

Q君は職員の労務業務について2か月間のオリエンを受け引き継ぐことになるも、12月のボーナス、年末調整等大変な時期に突然、退職すると言ってきた。「最後まで頑張る」と言っていたことについて問質すと、「何の保証もないのに、これから大変な仕事をさせられるのは自分の将来のためにきつい」と意味不明。机の上に就業規則があった。廃業、転勤の処遇の話は全職員に説明はされていた。Q君に「保証とは、働いている間給料が保証されることで他に何を要求しているのか」尋ねる。すると、Qはもじょもじょと言っていたが意味が分からない。就業規則のページが退職金についてだったので、自分が退職金をもらえる年数に達していないことを言いたいのだろうと想像した。

残る職員4人で話し合って、人数は減るが、今後のことを考えると早く辞めてもらった方がいいという結論になった。3日間しかない有給休暇を取り切り、12月下旬に退職した。

Q君がいなくなった後、Q君がやっていた一つ一つの仕事のしりぬぐいに時間をずいぶん費やし、残った4人はへとへとになった。最後まで何者かとらえることができなかった。Q君は何者だったのか摩訶不思議。変わった職員は大勢いたが自分の部署ではQ君が一番!

ノンフィクション物語(その三) ホシホウジャク

紅葉間近の野沢温泉を訪れた。 こんこんと湧くいで湯の里、北信州野沢温泉、どこからともなく白いゆけむりがたちのぼり、湯の里の温かさを肌で感じる。

「おつかり」「おしずかに」これは村人たちが共同浴場で交わすあいさつ。一三の共同浴場(外湯)は村人の共有財産であり、遠い昔から湯仲間という制度によって守られてきた。

私達は、まず旅館の内湯に入り、日が傾く前に、外湯巡りに繰り出した。外湯は一三カ所ある。大湯に薬師三尊(薬師 如来、日光菩薩、月光菩薩)、その他の外湯に、薬師如来を助け、守護する十二神将(しんしょう)を一体ずつ奉って湯の守り仏としている。

私達は最初に山際の静な場所にある滝の湯へ行くことにした。民家をぬって続

く緩やかな坂道を歩いて行く。山に囲まおれたちょっと薄暗い背景の中で、家々の庭先に咲いている秋の草花がひときは鮮やかに見えた。コスモス、ナデシコ、オシロイバナ、タデ、ヤマアザミ、マツムシソウ、……それらの草花に誘われて、こっちにふらふら、あっちにふらふら、 なかなか滝の湯へは着かない。

突然、静寂を破る甲高い叫び声が聞こえてきた。それは娘の声だった。

「ハチドリだ!ハチドリだ!」

私の目も、配偶者の目も、母の目も、娘の見ているものへ向けられた。

そのものは、翼を目に留まらぬ早さで回転させていた。空中に浮きながら花の蜜を吸っていた。まるで空中に制止しているように見えた。

間違いなくハチドリ。

「ハチドリ。」

「ハチドリ。」

 「ハチドリ。」

しばらくの間、三人から出る言葉はただただ「ハチドリ」。

私はじっと瞬きもせずにハチドリを見ているうちに、ちょっとした疑問にぶつかった。

「ちょっと胴体と尾がぼってりしてるね。」

と誰にともなく言った。すると配偶者は、

「その尾こそ鳥を示す証だ。」

と悠然と答えるのだった。

これも湯を守り、人を守り、村を守る 仏様の思し召しであろう。ありがたいこ とだ。

私達は、なかなかハチドリの側を離れられなかった。日が傾き始め、だんだん冷え込んできたが、それでもガタガタ震えながら見入っていた。そのうち、どうにも湯が恋しくなり、後ろ髪を引かれる思いでハチドリを後にし、湯につかることにした。

ところで、「いざ、湯巡り」と勇んで旅館を出たが、私達は、一三の外湯のうち「滝の湯」と「大湯」の二箇所に入っただけで、身も心も十分熱くなった。ハ チドリと出会った興奮も加わったのだろ。

翌日、私達はハチドリとの出会いを土産に帰路についた。

家についてからも、それぞれ、ハチドリのことで胸がいっぱいだった。

翌日。ある友人が訪ねてきた。私達は、もちろんハチドリのことを熱く語った。友人は、ある疑問を優しく投げかけた。

「ハチドリは南の国にいる鳥だけど・・・。だれかの飼っていたものが逃げ出して、そこにいたのかなあ。よかったね。」

その言葉を聞いたとき、何だか心臓がドキドキ波立った。さっそく娘は図鑑を取り出し、調べ始めた。

「ハチドリ 南北アメリカと西インド諸島にだけすんでいる。花の密を吸うみつをすうので、花の多い熱帯地方に主にすんでいる。くちばしは細長く、舌は長いくだのような形をしていて、つぼのような花の底からも密を吸う。ハチドリは、羽を早く動かして、空中にとまったまま花の蜜を吸う。また、鳥の中ではただ一つ、後ろに飛ぶこともできる。一秒間に五〇回以上も羽を動かすといわれ、ハチのような羽音をたてる。だが、足は弱く、地上を歩くことはできない。ハチドリは、鳥の仲間でもっとも小さい仲間で、コビトハチドリは、全長六〇mm、体重二gしかない。オスは羽が美しく、『動く宝石』といわれている。しかし、メスの羽の色は、ふつうは地味で、あまり光らない。」

と書いてあった。何度も何度も読み返したがやはり同じ...。

ハチドリは、南北アメリカと西インド諸島にだけすんでいるということは、長野にはすんでいないということになる。なんだか体が固まってしまった。

だが、しかし、友人は「だれかの飼っていたものが逃げ出して、そこにいたのかなあ。よかったね」と言ったし、まだ決まったわけではない、と自分に言い聞 かせた。

図鑑に出ているハチドリの仲間を一つ一つ図鑑に穴があくほど見入った。

「フキナガシハチドリ」。

違う。

「ノドアカハチドリ」

違う。

「ズアオハチドリ」。

違う。

「クロハラハチドリ」。

違う。

違う違う。……。どこにも、私達が見たハチドリは載っていなかった。確かに、胴体や尾が完全に違う。あの時の

配偶者との会話が脳裏に浮かんできた。

「ちょっと胴体と尾がぼってるしてるね。」(私)

「その尾こそ鳥を示す証だ。」(配偶者)

そう、あの時の私の疑問は確かであった。娘はまた別の図鑑を持ってきた。 それはとんでもないもので、『昆虫図鑑』 だった。ページはめくられていった。信じたくない。

だが、しかし、三人の眼差しは一一〇 ページに留まった。私達が見たハチドリにどうしても似ている。信じたくない。 だが、しかし、あのぼってりとした胴体とあの気にかかった尾、まぎれもなく私達が見たハチドリだ。

その名は「ホシホウジャク」。

「ホシホウジャク(スズメガ科、 開長四○から五〇mm) スズメガの仲間は長い口を持ち、ハチのように飛びながら花に口を差し込んで密を吸うものが多い。空中でとまる曲芸師のようだ。スズメガの仲間は大半が夜行性だが、日中や夕方飛び回るものも多い。成虫は七月から十一月に出現する。ホシホウジャクの仲間は日本に一五種あり、分布は日本全土。ホシホウジャク(蜂雀)とは、ハチのようなスズメガということ。」

ハチドリではなかった・・・。鳥ではなかった。ホシホウジャク、その正体は蛾。まぎれもなく昆虫。鳥類ではない。

「ハチドリ、ハチドリ。」

「ホシホウジャク、ホシホウジャク。」

 何ということだ。でも、確かに両方とも「空中でとまったまま」「花の蜜を吸う」のだ。鳥と昆虫の違いはあるが確かに似ている。空中でとまる曲芸師、ホシホウジャク。がっかりすることもない。

あれから一月、どういう訳か、今では、ホシホウジャクは私達のアイドル。黒部に住んでいる母は、電話で、「今日も、ホシホウジャク、飛んでたよ。」

「今、そこにホシホウジャク飛んでたよ。」

とうれしそうに言う。

配偶者は、

「今日は、加賀でホシホウジャクが三匹、飛んでいたよ。」

とうれしそうに言う。

娘はひまになると、突然、

「ホシホウジャク、ホシホウジャク」

とうれしそうに言う。

「ホシホウジャク、ホシホウジャク」

素敵だ。

幻のハチドリ。

私達のホシホウジャク。

(1999年11月1日『創刊号』)

ンフィクション物語(その二)  メアリ・ポピンズになった少女

「台風四号、東日本に豪雨禍。各地に大雨を降らせ、夜には三陸沖に抜けたが、漁船の遭難も含め、死者、行方不明八三人を出した。」(昭和四十一年六月二十八日)

少女は黒部市立村椿小学校の二年生だった。少女が住んでいた村椿出島(当時)から、学校までは子どもの足で小一時間はかかる。六月二十九日、台風四号の勢力はかなり弱まってはいたが、北陸にも、雨と風 を運んだ。

少女は四時間目の授業を終え学校を出た。普段は同じ村の同級生の2人と一緒に帰るのだが、その日は置いてきぼりになったようだ。かえってその日が特別な冒険の始まりという感じで、ワクワクした気持ちになっていた。

雨は小降りになっていたが、風がまだ強く感じられた。少女は風が少し気になりながらも、ワクワクした気持ちで、学校を後にした。風は西側からビュンビュン少女に吹きつけた。少女の通学路は、黒部川の支流である川幅が六メートルほどある吉田川に沿った道であった。

毎朝、学校へ着くまで、子ども達はその川に木片を投げ、自分の木片の流されていく早さに歩調を合わせながら歩いた。途中にドンドン(水門)があり、そこを木片がくぐることが一番の難関であった。そこに木片が一度巻き込まれてしまうと、容易に川の流れに出ることができない。子ども達は、必死に小石を投げて自分の木片を援護する。時には、川の藻に引っかかることもしばしば。そういうときも、子ども達は、必死で小石を投げた。無我夢中の子ども達は、学校に時々遅刻となり、先生が心配で、迎えに来てお説教という運びとなる。

話がそれてしまったが、昭和四十一年六月二十九日十一時四十分、少女は大きなランドセルを担ぎ、しっかりと傘をもち、横殴りの風の中、飛ばされそうになりながら歩いていた。一瞬、横殴りの風が一段と強く吹いてきた。少女の小さな体は風に押され川の方を向いた。川の水は水門が止められていたので、いつもよりずっと少ない。少女は川の対岸にふと目をやった。風がねむの木の枝を吹き抜け、すべての葉を眠らせた。風は激しい音を立てて少女の傘の下へ吹き込んできた。そのとき、どこからか風に乗ってかすかな声が聞こえてきた。

「川の向こうまで飛べるよ。」

 少女は、「なに。なんって言ったの」と聞き返したが、少女の声は風にかき消されていった。少女はまた川の向こうの岸を見つめた。すると、再び、

「その傘があれば、川の向こうまで飛べるよ」という声が風の中からしてきた。

やがて風は傘と少女を地面から空中に持ち上げた。風は少女のつま先が道をかすめるくらいに軽々と運んでいき、少女を川の真上へ運びあげてしまった。少女は、「私は空を飛んでいる」と感じた。その瞬間、対岸に飛び移ることを信じていた少女は、すーっと川の真ん中に落ちた。

「ねむの木の枝のうねり。」

「風の中から聞こえてきたささやき。」

「傘の下へ吹き込んできた風。」

「つま先が浮かんだその瞬間。」

「ふわーと舞い上がった瞬間。」

少女の脳裏にちょっと前に起こったことが一瞬一瞬、フラッシュをたかれて写し取られた写真のように浮かんだ。その一瞬一瞬の映像は、三五年以上もたった今も鮮明に記憶に残っている。

少女の落ちたところは幸いにも、水門が閉じてあったおかげで中洲になっていた場所だった。普段であれば川幅いっぱい勢いよく水が流れている。少女が飛んだ日の一月ほど前のことであるが、雨の強く降った日に、一人の老女がこの川に落ち、海に流されて遠く離れた海岸で遺体となって発見された。

少女はどうやって岸にたどり着いたか、今では全く記憶にないが、このシーンを思い出すたびに、「チムチムリン チムチムリン チムチームリン」と口ずさみ、メアリ・ポピンズのことが頭に浮かぶ。少女が空を飛んだ数日後のことである。少女は母親から驚くべきことを聞かされた。

「昨日、やすまっつり(祭り)で、易者に手相を見てもらったらね・・・・」という話が始まった。

少女の母親は、その頃、占いが好きで、困りごとが起きたり、迷いが生じたりしたときには、神頼みならぬ占い頼みをした。東に評判の占い師がいると聞けば東に走り、西に評判の占い師がいると聞けば西に走る。人相占い、手相占い、星占い、易占い、すえはトランプ占いまで、自分の人生を占うために、娘の人生を占うために走る、走る。

やすまっつりに出会った易者は母親の手を、難しそうな顔をしながらじっくり見た。そして、重く口を開いた。

「お宅に娘さんが二人いるだろう。その上の娘さんに水難の相が出ておる。このままではいつか水に溺れて死ぬやもしれん。」

母親は言葉を失ったが、しばらく経って、

「どうか娘をお助けください。」

と易者にすがった。易者は、

「このお札を持っていきなさい。」

と言って小さなお札を手渡した。母親はしっかりお札を握りしめて易者に深々と 頭を下げて、立ち去ろうとした。そのとき、

「おお、ちょっと待ちなさい。五千円おいていかれよ。」

と言った。母親はびっくりした。当時の五千円といえば大金である。財布には二千円しか入っておらず、その易者にどうにか二千円でお札を譲ってもらいたいと交渉した。粘り勝ちというわけではないが、財布に入っているお金は、二千円しかなかったのであるから易者もやむを得ない。母親はどうにか、そのお札を手に入れることができた。母親はお札を少女に見せ、神様棚にあげた。

そういえば、その頃の少女はよく川の中に引き込まれた。学校の帰りに川のそばに積まれたはさぎの上で、しろつめ草の花飾りを編んでいたとき、目を川面に落とすと、水面がにわかにぐるぐる渦を巻いた。少女はその渦に吸い込まれ、川の中で二回転した。またあるときは、何かいると思って川をのぞいたとき、そのまま川に吸い込まれてしまった。数えればきりがない。お札をもらってきて、しばらくは、毎朝、神妙に神様棚のお札を拝んでいたが、それからというもの、少女は川に吸い込まれることもなく、空を飛ぶこともなく、無事に成人し、今年四三歳になった。少女を救ったお札は、今も出島の家の神様棚にある。

四三歳になった少女は、今もお札に感謝をしているが、たまに、あのふわーと浮かんだ一瞬をドキドキしながら思い出す。そして、もう一度メアリー・ポピンズになりたいと思う。傘を差す日は、今もドキドキする。「チムチムリン チムチムリン チムチームリン」と自然にロずさんでいる。

(2001年12月1日 『楽門舎 第4号』)

ノンフィクション物語(その一)      さとり

私が6歳の春(昭和39年)。田んぼの真ん中にある見晴らしのいいお墓のうえで3歳年下の妹と、2歳年下の従妹と、あと2人ほどの子供で遊んでいた。墓で何をして遊んでいたのかはっきり覚えていないが、木や草の葉っぱを集めてままごと遊びのようなことをしていたことをうっすらと思い出す。

その時、突然、二本足で駆けていく毛むくじゃらの物体が視界に入ってきた。その生物はわき目もふらずトット、トットと走っていった。その時の私にはまったく恐怖心はなかった。私はその生物が田んぼの地平線の彼方へ消えてゆくまで、瞬きもせずじっと目で追い続けた。周りにいた子供たちも見ていたが、彼らの記憶には残っているのだろうか、何となく聞きそびれた。

その後、私は毎日のようにその生物のことを両親にも言い続けていたが、そのうち記憶の片隅に追いやられた。母親は、娘がこの出来事をよく話していたということは記憶に残っている。私はいつの日かその生物を「妖怪」と思っていた。

 再び、この生物について思い始めたのは高校生の時だった。夏の日、同じ美術部の友人と、三階の美術部の部屋から夕陽に照らされた黄金色に輝く海を眺めながら、石川セリの「遠い海の記憶」小さい頃の思い出ばなしを語り合っていた。その時、友人が、「毛むくじゃらの人間みたいものが、山から走ってきたのを見たことがある。顔は真っ赤だった。しかし、猿ではない」という話をしたのだ。私はあの日のことを、あの妖怪のことを記憶の片隅から呼び起こした。走り方、色、形、後ろ姿、目の前にくっきり蘇った。私が見た妖怪は走り去るところだったので、顔は見ていない。その妖怪の顔が赤いかどうかは分からないが、姿態は友人の見たものと同じだと思った。

その後も、黒部の山の方に住んでいる人が、真っ赤な顔をした人間のような毛むくじゃらを見たという話を一度耳にしたことがある。

高校を卒業して東京の大学の国分学科で学んだが、卒業論文でふるさとの「黒部の伝説」を調べることにした。黒部の伝説に取り組むにあたり、神田へ参考文献を探しに出かけた。その時、水木しげるの妖怪辞典を三冊手に入れた。ページをめくっていくうちに、あの妖怪が目の前に現れた。今でも、その瞬間のことを覚えている。探し求めていた友に再び出会ったような感じがしたのだ。あの妖怪の名前は「さとり」。

「さとり」は岐阜県の飛騨の山奥に住んでいる妖怪である。『妖怪なんでも入門』(水木しげる著)によると、「色が黒くて、毛が長く、人間との会話が出来る妖怪だ。人間には害を与えないけれど、人間が殺そうとすると、その人のこころをさとり、するりとにげてしまう」とあった。飛騨から黒部の村に下りてきても不思議はない。

私はさとりの顔は見ていないが、2人の人が顔は赤かったと言っている。本には「色は黒く」とあったが、顔とは書いていない。「ゲゲゲの鬼太郎」の映像に出てきたさとりの顔は赤かった。

そして、もう一つ、世にも不思議な「すごい」話がある。三年前のことである。私の英会話の教師だったステンシィとの会話の中で「妖怪」のことが出てきた。「妖怪」の説明はなかなか難しかったが、ゴーストの好きなステンシィはその話に飛びついてくれた。私は「さとり」についてジェスチャーや絵を駆使してめちゃくちゃな英語で説明した。彼女は「Oh my gosh!」と言い、目は輝いた。

金沢のステンシィを訪ねたアメリカの友人が、京都から金沢に来る列車の窓越しにある生物を見た。ステンシィの友達は、「日本には、毛むくじゃらで顔の赤い生き物が住んでいるのか」と尋ねたという。そして、その友人は「決して猿ではない」と付け加えたそうだ。

本当にすごいことになった。30年以上も前に見たさとりが、今の日本にもまだ生きているのだ。なんと素晴らしいことか。私はいつか、またさとりに会えるような気がする。

覚(さとり)は、日本妖怪の一つ。鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』に記述があるほか、日本全国で人のを読む妖怪として民話が伝えられている。

『今昔画図続百鬼』には以下のように、飛騨美濃(後の岐阜県)の山奥に、人間の心を読む妖怪「覚」が住むと述べられている。飛騨美濃の深山に玃(かく)あり 山人呼んで覚と名づく

色黒く毛長くして よく人の言(こと)をなし よく人の意(こころ)を察す あへて人の害をなさず 人これを殺さんとすれば、先その意をさとりてにげ去と云挿絵にある妖怪画は、江戸時代の類書和漢三才図会』にある玃(やまこ)をモデルにしたものと見られている。「玃」は本来は中国の伝承上の動物であり、人の心を読むという伝承はないが、『和漢三才図会』では人の心を読むといわれる飛騨・美濃の妖怪「黒ん坊(くろんぼう)」を挙げ「思うに、これは玃の属だろうか」と述べている。『今昔画図続百鬼』にも、「覚」が人の心を読むという記述があるが、これは「黒ん坊」の記述を引いたものと見られている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』