★2024年4月1日

~あかちゃんだったももは・・・・~

今年初めて、いしかわ動物園にももを連れて夫と3人で行ってきました。ももは5回目の動物園です。ももの後ろ姿にちょっとお姉ちゃんになった雰囲気がありました。

初めていしかわ動物園に行ったのは2022年7月、ももが2歳になったばかりの時で広い敷地をベビーカーで回りました。初めての動物園でしたが、どの動物を見ても怖がらず喜んでいました。雌のオランウータン「ドーネ」は昼寝中でしたが、しばらくして起きてきてももの側に来てくれました。ドーネとのガラス越しの対面は感動的でした。2021年11月29日に雄のボルネオオランウータン「ブロトス」(二十六歳)が死にました。ブロスは娘が小さい頃から会うのを楽しみにしていたオランウータンでした。しばらく雌一頭になっていたのですが、29歳のオス「ハッピー」がお婿さんに来ていました。

翌年春に2回目の動物園に行ったとき、ももは自分の足で園内を回りましたが、ほとんど動物を見ずチョウチョを追い回したり、階段を昇ったり下りたり、側溝に夢中でした。園内を高速で走り回って、じじとばばはへとへとになりました。そしてどの動物も「こわい」「こわい」と言って素通りしました。なんだか動物に興味がなくなったようで残念でした。

しばらく動物園に行くのをやめていましたが、3歳になってから恐る恐る再び出かけてみました。晩秋の晴れ間、ももと3人で4度目のいしかわ動物園に行ってきました。その時は一匹一匹の動物を興味深くじっくり見ていました。前回スルーしたオランウータンのハッピーは昼寝中だったのですが、しばらくして起きてきてくれました。

最近のももの話ぶり、しぐさを見てだんだん一人前になってきたなと感じるときがあります。今日のももの後ろ姿を見て特におねえちゃんになったなと感じ、なんとなく胸がいっぱいになりました。その気持ちにぴったりな一文がももとばばのお話会で時々読んでいる『たいせつなこと』の中あります。「あかちゃんだったももは・・・」。

あかちゃんだった あなたは

からだと こころを ふくらませ

ちいさな いちにんまえに なりました

そして さらに

あらゆることを あじわって

おおきな おとこのひとや おんなのひとに

なるのでしょう

でも あなたに とって

たいせつなのは

あなたが あなたで あること

私の父はひ孫のももに、母はけんにも会えました。両親は孫娘の30歳代の姿を見ることができました。ももが20歳になったら、私は82歳。けんが20歳になったら、私は85歳。その姿を元気に見られるかなと時々愁いたりします。夫は私より2つ上なのでもっとそう感じていると思います。

そんな愁えなど吹っ飛んでいく一文がももとばばのお話会で出会った本に書いてありました。いぬいさえこ作『きみのそばに いるよ』から、孫たちに伝えたい私の言葉があります。

「あなたがわたしの命のものがたりに、いてくれたこと。それがわたしのいちばんのたからもの。いつかこの空にのぼる日がきてもずっときえない、やさしいたからもの」

「わたしはしあわせだよ。今も。今日も。明日も。いつかこの空にのぼるときがきても。お星さまになってからも、ずっとしあわせなんだよ。命あるあいだに、きみと出会えたから」

ももとけんがわたしの命のものがたりにいてくれたことは、ばばのいちばんの宝物。命あるあいだに、ももとけんに出会えたから、ずーっとばばはしあわせだよ。」

★2024年3月17日

~「人間はきまった年齢などない動物だ。二、三秒で何年も若返ることができる。」~

昨年まで高齢者施設でソーシャルワーカーとして勤務していた私は入居者の皆様と「年を取ること・老いの意味を」考えてきました。

ヘルマン・ヘッセは、階段のような順序性のある人生と考えており、プルーストにとっては過去と現在の時間は重なり合ったり、流動的であると表現しています。また、精神分析理論家のエリクソンは、人生を縦糸と横糸と織りあわされた「織物モデル」ととらえるとともに進歩(山登り・階段)モデルととらえています。

ヘルマン・ヘッセ(ドイツの作家)は、

「どんな花もしおれ、どんな青春も老年になるように、どの人生の段階も花開き、知恵もそれぞれ花開く。どの美徳も決められた時に花開き永遠に持続することは許されない。心はそれぞれの人生の段階ごとに、すでに別れと新たな開始のために準備をしなければならない。私たちは朗らかにひとつずつ階段を通り抜けるべきである」

と『人生は成熟するにつれて若くなる』に書いている。

プルースト(フランスの小説家)は、

「人間はきまった年齢などない動物だ。二、三秒で何年も若返ることができる。生きてきた時という壁に囲まれて、その中で漂っているのだが、あたかも水面がたえず変化している洗面器の中にいるかのように、いまある時代に入ったかと思うと、いままた別の時代に入っている」と『失われたときを求めて』に書いている。

この二人のとらえかたがわたしにとって「年を取ること・老いの意味」にしっくりくるものです。

私が46年前、最初に仕事に就いたのが黒部にあるYKKでしたが、そこで昼時間に誘われてバトミントンをするようになりました。そのバトミントンが仕事を終えてからも同好会のようなチームを作り、隣の市の体育館を借りて週に2~3回行うようになりました。やがて蒲公英というチーム名になりました。だんだん人数も増え男性10人以上、女性4人でした。練習場所の体育館主催の大会にも何度も出場しました。私はKさんとダブルスを組んで試合に出場し、何度か優勝しました。2年半程の間でしたが、とても楽しい特別な時間だったのだと思います。

8年前、36年ぶりに蒲公英の会7人で会いました。2人は横浜からの参加です。皆さんは温泉に宿泊され、私は夕食の宴会に参加させていただきました。

また昨日から8年ぶりにコアなメンバー5人が金沢のスーパー銭湯に宿泊し、翌日午前中に私も合流し、8年前と同じように懐かしい話をして2時間盛り上がりました。過ぎ去った45年前の時間が懐かしいという感じよりも目の前に鮮やかに広がっているという感じでした。

こういう感じは時々体験します。子供の頃の思い出、両親と過ごした時間、娘が子供だった頃、仕事をしていた頃のいろいろな場面などをふと思い出したとき、思い出という感じではなくちょっと前のことのように鮮明によみがえってきます。

地震発際災の翌日(1月2日)、39年前に出版社で一緒に働いていたYちゃんから初めてのメールがありました。仕事を辞めてから一度お母さんと水戸に遊びに来られました(33年ほど前)。その後は年賀状のやり取りだけでした。Yちゃんは私の後輩で私のことを「お姉ちゃん」と慕ってくれていました。今回、安否確認のメールをもらった大変とき、嬉しかったです。そのメールには「お姉ちゃん」と書いてありました。Yちゃんのメールがこちらのことをよく分かっていらっしゃるような内容だったので、ちょっと不思議な感じがしました。その後のメールのやり取りで分かったのですが、去年の年賀状にシャイニングスモールストーンという名でホームページを開くことを書いていました。Yちゃんは時々ホームページを見てくださっていたようです。今年の年賀状にはメールアドレスも入れてあったので、年賀状を見てすぐにメールをくださいました。最近、年賀状を辞めますという方が増えてきましたが、Yちゃんとは年賀状でつながっていました。

年下のYちゃんも60歳代になっていました。1度泊めていただいた東京の墨田区の家で今お母様の介護(ワンオペ)の真っ只中で頑張っていらっしゃいました。10年前にお父様を介護されることになり、フリーランスで働いていた編集関係の仕事を辞めお父様を看取られました。

ご両親様の優しい笑顔を今でも覚えています。Yちゃんの家におじゃました時、お父さんといろいろお話しして楽しかったこと、お父さんの笑顔が浮かんできます。

Yちゃんは仕事を辞めてから、プリザーブドフラワーのアレンジメント教室に通い、今はフラワーデザイナーとして、アレンジメントを作って販売されています。

3月に、友人に贈るためにプリザーブドフラワーをYちゃんにお願いする機会がありました。その時、打ち合わせのために電話でお話をしましたが、電話先にいるYちゃんは39年前のYちゃんでした。メールをいただいてから出版社で過ごした時間が走馬灯のように細部までよみがえってきてきました。年賀状によって再びYちゃんとつながったことが嬉しいです。

「人間はきまった年齢などない動物だ。二、三秒で何年も若返ることができる。」

★2024年1月26日

~能登半島沖地震~

1月1日

島家流鯛のお雑煮とおせち料理で今年一年が始まりました。

お正月の記念撮影を行い、ゲームを楽しみました。4時ごろに孫・ももの昼寝タイム。

午後4時10分ごろ、石川県能登半島で最大震度7の揺れを観測する地震が起きました。大きな揺れがなかなか終わらず恐怖でした(1~2分?)。

この地震により、キッチン・リビングから私の部屋にかけてはピアノ、本棚、テレビキャビネットが動き食器、本が落下、ガラスの割れる音、ものが落ちる音、本が落ちる音、引き戸が動き外れて倒れかけてくる恐怖の様子を目の当たりにしました。夫の部屋は博多人形1ケース以外の4つが落下して粉々になり、仏壇、神様棚も落下し、ガラス・陶器の破片が散らばり踏み入れることはできません。重い2つのタンスは右に10センチ程動き、本棚は90度回転して本が散乱していました。ベッドも茶箪笥も10センチ程動いていました。娘と孫たちの寝床は棚(食器棚を利用していた洋服入れ)の上がちぎれて寝床に落下し、荷物が散乱。ちょうどももの昼寝に娘と2人寝床にいたので、少し避難が遅れたらと思うと心臓が凍りつきます。

この地震の少し前に揺れた地震で、みんなが居間の入り口の一番安全な場所に身を寄せ合っていました。すぐにテレビを点けた直後に緊急地震速報がなり、大きな揺れに襲われました。

けんは抱っこされているのでニコニコしていました。ももはテレビで繰り返された「安全な場所に避難してください」の放送に「早く外に逃げなきゃ。テレビで言ってるから、逃げなきゃ」とずっと叫び続けました。津波の避難も繰り返し放送されました。津波のことを考えると10階にいた方がいいと判断し、緊急地震速報があるたびに身を寄せ合いました。暫くして、温水器が倒壊し、お湯が溢れて出ているのに気づきました。廊下は水浸しです。温水器で廊下が塞がれ、奥の部屋への行き来が出来ず、ベランダから出入りしました。

娘たちの住まいの3階(ほとんど10階で一緒に過ごしています)は熱帯魚の水槽がひっくり返り、リビングが半分汚くなり、玄関のカメの水槽から水があふれ出しお米が2俵ダメになりましたが、それ以外の被害はありませんでした。

エレベーターは止まりました。そのまま安全なリビングの上方に布団を敷き詰め6人でテレビを点けたまま寝ました。余震が頻発していた。

2日、3日でキッチン・リビングと私の部屋を片付け、動いた家具を夫と息子中心に出来るだけ元に戻しました。2日には、3階でお風呂に入りました。

3日、7.8.9階で漏水があり、原因が分からず断水になりました。トイレは非常用のトイレを夫が設置しました。その日から、夕食後、お風呂と寝るのを3階にすることにしました。ペットボトルに水を入れ3階から10階に運んで使いました。3階ではペットの関係でキッチンは使えず、10階で使った鍋などを洗面台で洗います。

6日に知り合いの産廃業者さんに背の高い家具や割れたり壊れたりした物を処分してもらえることになりました。出来るだけ不用品もまとめました。文学関係の本も含め3分の2ほど処分することにしました。夫も引っ越すごとに処分してきた本ですが、今回もかなりの本を処分しました。

1月7日、荷物を整理し、午後から娘と東京インテリアにロータイプの家具を買いに出かけましたが、東京インテリアも地震の影響で休業中になって、復旧があやふやだったので、ネットで探してみることにしました。バタバタしていましたが、七草粥を作り、皆で温まりました。

1月8日

毎日、荷物整理を頑張っていた。

今回の地震波形を分析した結果、木造家屋に大きなダメージを与える周期1~2秒の揺れが強かったとのことです。本日午後1時までで、震度5弱以上の揺れは15回、震度1以上は1219回を上っていました。

1月9日

夫とももとももと3人で水天宮まで初詣に歩いて行きました(30分)。お守りも買ってきました。帰りは駅のタリーズで一休みして、久々の外出でした。

1月11日

今日はいい天気、公園にももとけんを連れて行きました。久々の公園です。

夕方から、水が復旧しました。トイレのこともあり、水はありがたかったです。

1月26日

16日から10階に寝ることにしました。お風呂に行ったり来たりは面倒ですが、我が家に戻れたので一安心です。いつものももとの夜の時間が戻りました。

ロータイプの家具もネットで注文し、本日全部搬入されました。夫の部屋の神様棚を載せる棚は仏壇の横に置きました。その棚の中に奇跡的に割れなかった「おさななじみ」という博多人形を置きました。母の大事にしていた4つの博多人形は割れてしまいました。「おさななじみ」は結婚祝いに母の知り合いからいただいた人形です。温水器が本日取り付けられたのでほぼ生活は元に戻りました。母の施設は被害がほとんどなく、元気にしているので嬉しいです。両親のたくましさを思い浮かべ頑張れたような気がします。

黒部から、東京から、埼玉から、茨城から、広島から、ニューヨークから温かい声掛けをいただきました。皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

能登の皆様のことを思うと胸が痛いです。

★2023年12月11日

今年も12月がやってきました。我が家はクリスマスの飾りでにぎやかです。

今年は特に1年が目まぐるしく過ぎていったように感じました。

9月15日に2人目の孫、けんが生まれました。ももは3歳になり、七五三のお祝いをしました。日本では古くから「節目」の行事を大切にする風習があり、赤ちゃんが生まれてから1歳になるまでの間にもさまざまなお祝い行事があります。どの行事も子供の健康と成長を願う大切なものです。

けんのお宮参り、ももの七五三は土地の産土神である安江八幡宮に参詣し、御祈祷をしていただきました。

11月18日にももの七五三のお祝いをしましたが、昔は乳幼児の生存率が低く7歳まで無事に成長させるのは大変でした。そこで節目ごとに神様に感謝して、子どもの健やかな成長を願ったのが、七五三の始まりだそうです。ももは私の両親が孫の娘に贈ってくれた着物を着て安江八幡宮にお参りして神様に感謝し、ももの健やかな成長を願いました。

神社に行く前に七五三の記念撮影のため写真館に行きましたが、そこでお子さんのお祝いのために精一杯されている何人もの親御さんの姿を見てじーんとしました。日本の古くから大切にされた風習に触れ、改めて感動した一年でした。また、神社に参詣するごとに脈々と続いてきた日本の歴史を感じ、美しい日本を誇りに感じました。

日本は神話とともに成立し、以来2千年近く、一つの国が続いてます。こういう例は世界のどこにもありません。まったく奇跡です。今年も色々な出来事があり、日本の危機をひしひしと感じています。一市民の自分に何ができるかを模索する一年でした。私たちは未来の子供たちのためにこの日本国を守り続けなければならないと強く思います。思うだけではなく小さな行動を起こさなければと考える一年でありました。

私が仕事を辞めてから、7カ月経ちました。一番の違和感は、電話が来なくなったことです。仕事をしているときは休みの日には9時、17時にスタッフからの定時連絡を受けたり、夜間も緊急事態が発生したときは電話がよく来ました。今はその電話が鳴りません。最初の頃はなんだかさみしいような気もしましたが段々慣れてきました。仕事をしていない私ですが、毎日なんだか忙しく過ごしています。けんが生まれてからは夫と私は家の仕事をしながら、2人の孫をみていると、あーっという間に一日が過ぎていきます。新しい生活で特にあげるとしたら、以前よりアクティブな生活になったことです。ももと夫の3人で公園や山、歴史観、科学館など・・・毎日のように出かける習慣ができました。晴れたいい日にはテントを持って出かけたりもします。来年はけんも連れていきたいと思います。

Shining Small Stoneとしてブログを立ち上げ、自分の原点を見直して、いろいろな物語をつづってみたいと思っていましたが、それを実現できたことは大きな幸せです。パソコン一台でいろいろ楽しい自己実現をしています。

母は一時、食事が摂れなくなりよくない状態が続きましたが、徐々に持ち直し、今は安定しています。一旦、ターミナルということでお部屋での面会をさせてもらっていましたが、再びリモート面会になり、いつになったら直に会えるのかなという感じです。来年こそはコロナなど気にせずに会える日がくればいいと願っています。

娘は1年間育休をとらせてもらい一生懸命母親になろうとしています。

高齢者施設に勤務しているときは、1年のイベントに追われて、準備をしていました。12月はクリスマスと、お正月の準備で賑やかな月です。うちはもともとイベント好きなので春夏秋冬いろいろ楽しんでいます。今年は20年ぶりに「土地の人旅の人」のお話会を再スタートし、「七夕の日のお話会」「ハロウィンのお話会」を家族だけで開きました。その通信をホームーページにも掲載していますが、これからもイベントを楽しんでいきたいと思います。

★2023年11月30日

~生きて抗う「ゴジラ -1.0」~

今日は4年ぶりぐらいに映画館に行きました(夏にももとアンパンマンの映画には行きましたが)。コロナの前までは、気になる映画を月に3~4本ぐらいは映画館に行って観ました。ラブロマンスとホラー映画はあまり好みませんが、いろいろなジャンルの映画を観ます。

ついに夫と娘と私は、「ゴジラ -1.0」を映画館に観に行くことができました。娘は母乳の合間に行くということで、3人でいつ計画を実行するか話し合いました。私は今週12月1日行って、来週は夫と娘が順番に行こうということになり、映画上映の時間を調べてみたら何と最終日が11月いっぱいでした。急遽、最終日の30日に9時半から一日がかりで3人順番に「ゴジラ -1.0」を観に行くことになりました。(なんと12月も上映していました???)

私が観た最初のゴジラ映画は「モスラ対ゴジラ」でした。小さな町にある映画館に親が連れて行ってくれました。

「ゴジラ -1.0」は“日本の「ゴジラ」映画であること”“監督が山崎貴であること”“時代背景が敗戦後すぐであること”、“俳優の面々”ということで、どうしても観に行かなければと思いました。前もって情報は何も調べず、聞かずに臨みました。山崎貴作品には三丁目の夕日」、「永遠の0」(2013)、「アルキメデスの大戦」(2019)があります。

この映画は、ゴジラが1954年(S29年)に初めて姿を現して以来ゴジラ生誕70周年を迎える2024年に先駆けた記念作品であり、日本で製作された実写版ゴジラの30作目という特別な節目となる作品です。

銀座を襲うゴジラの姿が、まさにゴジラ感爆発という感じでした。音を感じる大きな生物を体感する映画でした。「無(ゼロ)」となった日本を文字通り「負(マイナス)」へと叩き落とす絶望の物語ですが、「生きて抗う」がテーマであり、この時代の戦争から生き残った先人は強く、生きて抗うを見せてくれました。「初代ゴジラを現代の人に見やすいように分かりやすく作ったもの」と言っている人もいます。

敷島(神木隆之介)という帰還兵が自分の内面と向き合いどういう結論を出していくかという一本軸のストーリーでシンプルな内容です。敷島はゴジラと戦っていましたが、自分と戦っていると感じました。戦後の日本、そこに生きる人々という世界観、ゴジラは物語のきっかけの一つという存在で人間ドラマが主軸になっていると思いました。勿論、ゴジラへのリスペクトは強く感じる映画です。

登場人物のストーリーは一人一人描かれていませんでしたが、どのシーンも「意味がわ・か・る」感がありました。まさしく山崎作品だからなと思いました。

ゴジラとの最後の巨大生物對策「海神作戦」では「アルキメデスの原理」が使われたところも面白いところです。

また、大日本帝国海軍の駆逐艦「雪風」重巡洋艦「高雄」・駆逐艦「響」の姿、そして主人公の敷島が乗った幻の戦闘機「震電」の飛ぶ姿、日の丸を観ながら胸が熱くなりました。日本のため、家族を守るため散華した叔父のことを思い出しました。一度も会ったことのない叔父ですが、親孝行で兄弟思いの11人兄弟の長男でした。

映画評論で、映画解説者の淀川長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年) - 1998年(平成10年))は、映画とは何であるかについて、世界の言葉を持っていること、みんなが見て人間を知ることだと説明し、「映画ほど人間について教えてくれるものはない」と言っていましたが、「ゴジラ -1.0」もそういう映画でした。

淀川長春さんは、約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきました。最後に淀町さんの言葉を借りて「映画って素晴らしいですね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」。

震電(日本海軍の局地戦闘機) 震電は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が試作した局地戦闘機である。前翼型の独特な機体形状を持つ、そのため「異端の翼」と呼ばれた。最高速度400ノット以上の高速戦闘機の計画で、1945年6月に試作機が完成、同年8月に試験飛行を行い終戦を迎えた。略符号はJ7W。

<私の日本映画ベスト>

「20世紀少年」

「るろうに剣心」

「ゴジラ -1.0」

「シン・ゴジラ」

「あぶない刑事」

「踊る大捜査線」

「のぼうの城」

「花戦」

「空母いぶき」

「Fukushima50」

「三丁目の夕日」

「永遠の0」

「64」

「チーム バチスタ」

<私の洋画映画ベスト>

「ロード・オブ・ザリング」

「ハリーポッター」

「ライフ イズ ビューティフル」

「ビューティフル マインド」

「ネバーランド」

「パイレーツオブカリビアン」

「アンタッチャブル」

「コンスタンチン」

「マトリックス」

「仮面の男」

「キングアーサー」

「エックスペンタブルズ」

「バイオハザード」

★2023年11月20日

~雨の日は歴史博物館~

雨の日にももと出かける所は、歴史博物館、からくり記念館、科学館、昆虫館など室内で楽しめるところです。走り回る百花を連れていく場所を探すのはなかなか大変です。今日は3度目の石川県立歴史博物館の訪問になりました。5カ月ぶりです。

石川県立歴史博物館は、石川県金沢市出羽町にある石川県の歴史を扱う博物館です。併設する加賀本多博物館とともに「いしかわ赤レンガミュージアム」の愛称で親しまれています。

石川県立歴史博物館の赤レンガ建物3棟は、かつて陸軍兵器庫、戦後は金沢美術工芸大学に使用されていました。1986(昭和61)年、石川県立郷土資料館(金沢市広坂)が本多の森公園(金沢市出羽町)の赤レンガ建物3棟に移転し、石川県立歴史博物館として開館しました。

常設展(第一展示室、第二展示室)は、石川の原始から現代までを、各時代の象徴的なテーマを軸に概観する「歴史展示」と、風土に根ざした祭り文化を紹介する「民俗展示」から構成されます。大型スクリーンによる映像、ジオラマ、模型など楽しく歴史に触れ、体感できる展示室になっています。

ところどころに説明映像のモニターがあり、ももはそれらのボタンを押して映像を流すのが大好きで、いろいろなボタンにタッチします。今日もももはボタンにタッチして展示を観ていました。第二展示室の「近代国家と石川県」のコーナーのモニターのボタンをももが押し、案内映像が流れたとき、目が釘付けになりました。陸軍兵器庫だった赤レンガの建物の映像で「兵士と家族の面会」という場面が何枚も映し出されました。

祖父が徴兵され金沢にいたとき、祖母は父の許嫁の母(当時10代)を祖父に合わせるために、金澤陸軍兵器支廠兵器庫で面会したという話を母がよくしていました。歴史博物館に母といっしょに訪問した時も、赤レンガの建物を見て「ここでおじいちゃんに会った」と言っていました。「バスに乗って、バスに酔って」という話もしていました。その赤煉瓦の建物は兵器庫なのに何故そこで面会したのか、兵舎であれば金沢城だしなと思いを巡らせていましたが、この映像を見て母の記憶は正しかったと感慨深いものがありました。

いつもボタンを押すことを辞めないももをハラハラしながら見ていますが、そのもものおかげで祖父の生きていた時代に触れることができました。今日のももは一つ一つの展示に目を留めていました。

★2023年10年22日

~子供が生まれてからのお祝い行事~

けんが生まれて、改めて赤ちゃんが生まれてからのお祝い行事を確認してみました。ももの七五三のお祝いを今年11月に行います。2人の孫のお祝いに接し、娘の時のことが重なります。どのお祝いにも、両親が精一杯の準備をしてくれました。懐かしい思い出に浸りながら、2人の健康と成長を願います。

日本では古くから「節目」の行事を大切にする風習があり、赤ちゃんが生まれてから1歳になるまでの間にもさまざまなお祝い行事が存在します。どの行事もお子さまの健康と成長を願う大切なものなのです。

1.生後7日 「お七夜(おしちや)」

「お七夜」は、赤ちゃんが生まれてから一番初めに訪れるお祝い行事です。生まれた日を含めて7日目の夜に赤ちゃんの生誕を祝い、命名の儀式を行います。この習わしは平安時代頃から存在していたと言われていますが、当時は赤ちゃんの生存率が低かったこともあり、無事に7日目を迎えられたことに感謝し、これからの健やかな成長を願う「お七夜」の行事が広まっていったとされています。

半紙の命名書にももとけんの名前を記し、神棚に飾って無病息災を願いました。

2.生後1ヶ月 「お宮参り」

「お宮参り」は神社に参拝をして赤ちゃんの生誕を報告し、健やかな成長を祈るお祝い行事です。赤ちゃんが生まれた土地の産土神(うぶすながみ)に参拝するのが正式なスタイルと言われています。

時期としては男の子なら生後31日目~32日目、女の子なら生後32日目~33日目が良いとされています。

ご祈祷を受けました。

ももの時は8月の猛暑だったので心配しながら出かけました。ももの時は両親が娘に作ってくれた着物を掛けてお宮参りをしました。けんは私たちが準備した白い服を着てお参りしました。

3.生後100日前後「お食い初め」

「お食い初め」は、生後100日前後の赤ちゃんに初めてごはんを食べさせるお祝いの儀式です。「一生食べ物に困りませんように」との願いを込めて5つの祝い膳(尾頭つきの鯛・煮物・赤飯・香の物・汁物)を用意し、使用する膳・椀・箸はこの日のために新調するのがしきたりとされています。

この頃の赤ちゃんはまだ固形物を口にできないため、食べさせるまねをしてお祝いします。また、「石のように丈夫な歯が生えますように」との願いから小石を用意して歯固めの儀式を行ったり、「しわができるまで長生きできますように」と梅干しを添えたりと地域によってさまざまな風習があります。

ももの時は梅の花からお祝い膳を取り寄せ「お食い初め」のお祝いをしました。娘の時は埼玉に住んでいましたが、両親から焼いた大きな鯛とお赤飯が届きました。親の愛は山より高く、海より深いを娘が誕生してから何度も思いました。けんの「お食い初め」が楽しみです。

4.生まれて最初の3月3日 初節句「桃の節句(雛祭り)」

赤ちゃんが女の子の場合は、生まれてから初めて迎える3月3日の「桃の節句」に初節句を行います。初節句を迎える際には雛人形を用意し、「わが子の身代わりとなって災いから守ってくれますように」と願いを込めて飾るのが一般的です。

うちは私が生まれてから、母といっしょにお雛様を飾る習慣がありました。私のお雛様は「とやま土人形」でした。年月が経つうちにいくつか割れてしまいました。娘ができて、両親から立派な2段飾りの京雛を贈ってもらいました。毎年のお雛祭りには両親も足を運んでくれました。今も娘とやがて引き継ぐもものこのお雛様を、毎年夫が飾り3月3日にお祝いするのが家の行事になっています。

5.生まれて最初の5月5日 初節句「端午の節句(こどもの日)」

赤ちゃんが男の子の場合は、生まれてから初めて迎える5月5日の「端午の節句」に初節句を行います。五月人形や鯉のぼりを飾り、無病息災や立身出世を願ってお祝いするのが基本です。

端午の節句ならではの行事食としては「柏餅」や「ちまき」を添えます。けんが生まれ、うちでは初めての「端午の節句」です。どんな人形を贈ろうかと楽しみです。

6.生後1年 「初誕生(はつたんじょう)」

「初誕生」は、赤ちゃんが初めての誕生日を迎えたことをお祝いする行事です。お祝い膳やケーキなどを用意するとともに、以下のようなことを行います。

・一升餅
お子さまの一生になぞらえた「一升餅」をお子さまに背負わせて、「一生食べ物に困りませんように」「一生健やかでいられますように」といった願いを込めてお祝いします。地域によっては「いつか直面する困難を乗り越えられるように」との意味合いから、一升餅の上にお子さまを立たせて踏ませるところもあるようです。

・選び取り
意味を持たせた品物をお子さまの前に並べて、どれを最初に手に取るのかで将来を占う記念行事だそうです。品物はご自宅にあるお好みのもので構いませんが、調べてみましたら、代表的な品物と意味合いは以下のようなものです。

「選び取り」は初めて知りました。「一升餅」は娘の1歳の誕生日に両親が用意してくれました。誕生日に来ていただいた方がみんなで手をたたいて「頑張れ、頑張れ」コールをすると、娘はリュックに入ったもちを一瞬担ぎましたが、直ぐに大きい声で泣きました。

孫のももの時はケーキと果物の盛り合わせなどでお祝いしましたが、もともと食べることが苦手なため、ケーキをひとさじやっと口につけてくれました。ケンの1歳の誕生日は何をするか楽しみです。

7.「七五三」        

昔は乳幼児の生存率が低く7歳まで無事に成長させるのは現代よりも大変でした。そこで節目ごとに神様に感謝して、子どもの健やかな成長を願ったのが、七五三の始まりです。

七五三は「帯解(おびとき)」「袴着(はかまぎ)」「髪置(かみおき)」という3つの儀式に由来します。七五三に晴れ着を着る理由もこれらの儀式に由来しています。

娘の七五三が懐かしいです。3歳と7歳ともに土地の産土神・三島神社にお参りし、神様に感謝して子どもの健やかな成長を願いました。来月はももの3歳の七五三です。娘が着た着物(お宮参りに羽織った着物)を着て土地の産土神にお参りします。

★2023年10月20日

~『にげて さがして』~

『にげて さがして』(ヨシタケシンスケ・作)、すごい本に出合いました。

高齢者支援の仕事をするにあたり、専門的な知識が必要と思い、社会福祉士の国家資格を取得しました。また、精神保健を学ぶことで一層の高齢者支援ができると思い精神保健福祉士の資格も取得しました。

高齢者支援とは別に高齢者施設でたくさんの職員と関わりました。その中で「何でそんな風に考えるのか」「こういう人と仕事をするためにはどうしたらいいのか」と、どうにも理解できない人たちと出会い、自分の心のざわつきを収めるために放送大学で精神医学に関する教科を学び、何とか相手を理解したいと思い、『心の臨床家のための精神医学ハンドブック』『日常診療で観る人格障害』『エゴグラム』『アスペルガー症候群』などの精神保健関係の本もたくさん読みました。また精神保健福祉士になるために学んだことから自己流に考えたのですが、このなんとも難しい人物たちは人格障害の分類にはいる人が多いように思いました。アスペルガー的な人もいました。

昔、私は「いつか、きっと分かる」を信じていました。とても残念な話ですが、分かり合えない人はいます。

時間と労力の壮大な時間を遣いやした挙げ句、分かったのは「あ、無理」ってなった時は物理的に離れるか、心のシャッターを下ろして接したほうがいいということに辿り着きました。職場での人間関係は、仕事を一緒にしなければならないのでなかなかそういうわけにはいきませんでしたが、できるだけ物理的に離れるか、心のシャッターを下ろして接するように努力していました。しかし「なんで、なんで」と思ってしまう私の生来の性質はなかなか変わりませんので、深みにはまることも時々ありました。

ヨシタケシンスケさんの「にげて さがして」は私が決心するまでに長い時間をかけて分かったことを、24ページの中にすべて語っていました。仕事をしているときに読みたかった“すごい”本でした。

1か月前に生まれた孫けんを見ていると、なるほどなと思います。

本の中には次のことが書かれています。私たちが生きる世界にはいろいろな人がいて、それぞれが違う感情や言葉をもっています。それはよく分かりますが、その中に想像力を使うのが苦手な人がいて、時にひどいことを言ってきたりすることがあります。もしそういう人にひどいことをされてしまった時は、「するべきことは一つしかない。とにかく、その場から逃げること。きみの足は、そのためについている」です。ちなみにヨシタケさんの絵の中に描かれている「想像力を使うのが苦手な人」は豆腐のような白い四角い顔です。ももと私の中では「とうふ」都呼んでいます。ももがやんちゃになってよっぽどの時、「人の気持ちが分からない人、ひどいことを言う人は豆腐になっちゃうからね」というとはっという顔をします。

私は、今は豆腐と思われる人たちと物理的に離れたので「にげて」はできています。フリーになった私は、これから新たに「だいじなひとを」「だいじななにかを」さがしにいくことに心がけたいと思います。すぐには、みつからないかもしれませんが、さがすのをやめてしまうと二度と出会えなくなってしまいます。「だから、さがしつづけよう。だから、うごきつづけよう。」と思います。

★2023年9月16日

~新しい命の誕生、それは生命の軌跡~

9月15日8時1分、二人目の孫が生まれました。体重2818g、身長49㎝。母子ともに元気でよかったです。ご先祖様に感謝です。そしていつも見守ってくれている私の人形(父に買ってもらった私の守り神)に感謝です。

娘は1987年(昭和62年)9月生まれ。体重2,614g 身長48㎝

“もも”は2020年(令和2年)7月生まれ。体重2,356g 身長46㎝

“けん”は2023年(令和5年)9月。体重2,818g、身長49㎝

小さく生まれるのは遺伝でしょうか。私もとても小さかったそうです。

何故、今ここに生きているのか。改めて考えてもよく分かりません。確かなことは、祖先がいたからこそ自分があります。今ここに自分が生きていられるのは、近いところでいうなら父と母がいっしょになってくれたからです。娘は私たち夫婦が出会ったからこそ、今ここに生きています。孫2人が今ここに生きているのは、娘たち夫婦が出会ったからです。当たり前のようですが、実際地球には約45億という人間がいます。その中でどうやって私たちが家族になったのでしょうか。奇跡としか言えません。

45億という人間の中でどうしてそれぞれの父と母が出会ったのでしょうか。父と母が結婚して私たちはここに生きていられます。が、その場合『あなたの物語 人生ですべきたった一つのこと』(作:水野敬也 画:鉄拳)の物語の最後に書かれた「あなたが生まれる前に起きている出来事」そこには「~精子たちの過酷なサバイバルレース~」があります。精子が2~3億、その中のたった一つが、真っ先に卵子と結合して生まれたのが私たちです。つまり、私たちは2~3億分の一という極微の可能性でこの世に生まれました。人間が産まれるまでに多くのレースを勝ち抜き、そして自分という存在がここにある。そこに至るまでの10月10日の死に物狂いのレースの中で勝ち取ったものです。そんなレースを勝ち抜いてる自分。本当に奇跡的な生命ではないかと思います。

2~3億分の一の確率で生まれたのは、私たちだけではありません。父も母も祖父母も、つまり約500万年前という気の遠くなるような長い間の私たちのご先祖の一人一人が、みんな2~3億分の一の確率で生まれてきたことを知った時、私たちは本当に生まれてくることができなかったのに、何かとてつもなく大きな力が働いて、途中で途切れなかったことを、つなぎとめてくれたのではないか。奇跡によって今に行かされているのではないか・・。

孫たちの誕生は、生命の軌跡を感じ。~過去の地図(ご先祖様)~現在の地図(私たち)~未来の地図(子供と孫たち)~を考えさせてくれました。

ももには、『あなたの物語 人生ですべきたった一つのこと』を読んだことはありますが、今度は2人にこの本を読もうと思います2人に伝えたい「人生ですべきたった一つのこと」は、

★2023年9月2日

~盆踊り~

盆踊りはコロナのために中止されていたが、今年の夏は3年ぶりに各地で開催され、私は「阿波踊り」「おわら風の盆」等をユーチューブで観たりし、日本の夏を楽しんでいます。

盆踊りは、日本において、の時期に先祖を供養する行事、またその行事内で行われる踊りです。起源については諸説あるそうです。

日本三大・盆踊りの秋田)西馬音内盆踊り、(岐阜)郡上踊り、(徳島)阿波踊りはじめ、江州音頭(滋賀県)、白浜音頭(千葉県)、相馬盆唄(福島県)、ソーラン節(北海道)、炭坑節(福岡県)、デカンショ節(兵庫県)、ドンパン節(秋田県)、花笠音頭(山形県)、北海盆唄(北海道)、八木節(群馬県・栃木県)など各地域にその土地の盆踊りがあります。私も小さい頃から、黒部にいた23歳まで地元の盆踊りにはしごをして一週間ぐらい踊り歩いていました。地元の盆踊りは「新川古代神」です。<前唄><本唄~古代神【愛本口説】【お吉清三口説】~><後唄><本唄~古代神><後唄>など一晩中歌われ、踊ります。祖父も新川古代神を得意に歌うことができました。懐かしいです。

9月1日から3日にかけて行われた「おわら風の盆」。三百年余踊りつがれてきたその唄と踊りのおわら風の盆は、富山県富山市八尾地区で、この時期に行われます。哀愁を帯びた三味線と胡弓、太鼓の音色と、味わいのある唄に合わせて踊り手たちが情緒豊かに踊りながら歩きます。

私自身は「おわら風の盆」には1度も行ったことはありませんが、父や母は若い時に何度も夜通しで出かけていたということです。格子戸の民家、土蔵等、昔の面影を残すまち並みに、数千のぼんぼりが灯り立ち並ぶ風景も幻想的です。
越中おわら節の哀切感に満ちた旋律にのって、坂が多い町の道筋で無言の踊り手たちが洗練された踊りを披露すます。艶やかで優雅な女踊り、勇壮な男踊り、哀調のある音色を奏でる胡弓の調……。

おわらの起源は、江戸時代の元禄期にさかのぼると伝えられています(『越中婦負郡志』)。『越中おわら節』の歌詞は、7、7、7、5の26文字から構成される伝統的な甚句(じんく)スタイルを基本としています。数千にも及ぶ様々な創作歌詞が存在しますが、代表的な甚句として、八尾の春夏秋冬を読んだ4首「八尾四季」です。

祖父の「越中おわら節」も素晴らしかったです。私の結納の時に、おわら節を祖父から歌い始め、本家のおじ、母方のおじ、父、他親戚の人が順番に創作歌詞で歌われたときは感動しました。その光景は法事などでもよく見られました。すごい文化だなあと思います。

祖父は「一節一声」、一小節を息継ぎなしで歌います。お腹から声を出し、「声を後ろへ引ひくように歌うと高音が出るがいちゃ」と言っていました。一小節が終わるに従い音が高くなっていきます。祖父は建設省に勤めていましたが、歌がうまいということで、慰安旅行などでも歌をよくリクエストされていました。その慰安旅行にはよく孫の私を連れて行ってくれ、歌の審査員をさせてもらっていました。

祖父のことが懐かしくなりました。祖父の名前は米作でしたが、勤め人だったので米づくりは祖母と父母がしていました。当時はハイカラな人でバーバリーのコートなどを着たり、背広をよくオーダーメイドしていました。スクーターでなくオートバイにも乗っていました。職場では現場の責任者をしており、優しい人だったので人夫(にんぷ)の人には人気があり、現場によく私を連れていきましたが、周りの人から可愛がられたことを覚えています。雪の日は夜中に電話がかかり除雪の指揮を執ります。冬は毎日のように電話がありましたが、祖父は嫌な声一つせず、家を出ていきます。

その頃、祖父の年齢の人で字の書けない人が村に何人もいらっしゃって、よく書類の代筆をお願いされたり、老人会の役員をして旅行などの世話をしていました。村のおじいちゃんおばあちゃんが毎日のように私の家に集って、お茶を飲んでいる風景を思い出します。

盆踊りの頃にはよく祖父のことを思い出します。原戸籍と自分の記憶をたどりながら祖父母の「あなたの物語」を書いてみようと思います。

★2023年8月15日

~終戦記念日に思う~

大東亜戦争終結から本日で78年となります。日本国ため、家族を守るため、アジア解放のため、散華された英霊の御魂に慰霊と感謝の誠を捧げます。その中に一度も会ったことのない伯父がいます。親孝行で11人兄弟の長男でした。大変優しい兄だったそうです。近いうちに靖国神社に会いに行きたいです

先日、ある方のツイッターにNHKスペシャルが「きわめてひどいもの」と書かれていました。

8月7日に放送された「発見 昭和天皇御進講メモ〜戦時下 知られざる外交戦〜」です。見逃し配信で少し見てみましたが、びっくりする内容でした。東京大学某教授、日本大学某教授、某歴史学者が昭和天皇のお考えを勝手に解釈し番組を仕立てていました。

「昭和天皇のお考えで日独伊三国同盟が結ばれたかのような構成」

「昭和天皇が戦争を主導したかのような内容」

など、全く事実と違う内容が放送されていました。「昭和天皇は○○とお考えになっていたと思います」という表現で語られていたのはびっくりでした。この放送内容は、「『昭和天皇実録』、『昭和天皇独白録』の内容とは異なる内容です」(和田さん)。

私ははっきり覚えていませんが、『昭和天皇独白録』についての放送を観たことがあります。調べてみたら1997年放送NHKスペシャル昭和天皇二つの「独白録」でした。これもNHKスペシャルなんですが?

『昭和天皇実録』は、宮内庁書陵部編修課により編纂された昭和天皇の伝記(実録)である。実録としては初めて口語体が用いられた。昭和二十年(1945)九月二十七日のことです。昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。編纂作業は1990年(平成2年)4月から16年計画で始まり 、新資料の発見などにより1998年には完成予定を5年延長し20113月 に完成された。東京書籍から出版されています。

『昭和天皇独白録』昭和天皇独白録は、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に対して語った談話をまとめた記録。最初は『文藝春秋』1990年12月号で公開された。
ネットで調べてみたら、『ねずさんのひとりごとメールマガジン』(小名木善行/作家)に分かりやすく書かれていました。

「ついに天皇をつかまえるときが来た!」
事前に連絡を受けていたマッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。この時点で陛下をどのようにするのかGHQの中でも議論が交わされていました。方針は大きく分けて三つありました。
一、東京裁判に引き出して絞首刑に処する。 
二、日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。 
三、Chinaに亡命させて秘密裏に殺害する。
いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。ですからマッカーサーは陛下が命乞いに来られるのだと思いました。このため彼は傲慢不遜にマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。
このマドロスパイプを咥えたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。(略)
椅子に座って背もたれに体を預けて足を組み、マドロスパイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このように仰せられました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。」
弱ったのは通訳です。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。
「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
マッカーサーは驚きました。世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。
マッカーサーは、咥えていたマドロスパイプを、机に置きました。
続いて椅子から立ち上がりました。(略)

マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ちました。
そこで直立不動の姿勢をとりました。
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は、二度、この言葉を繰り返しました。そして、
「私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますことがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と言いました。 
陛下も、立ち上がられました。そして涙をポロポロと流しながら、 
「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と申されたのです。 
こののちマッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。そしてあわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を百八十度変更するあらたな命令を下しています。(略)

★2023年8月11日

~夏になると思い出す~

吉田拓郎さんの「夏休み」、夏が来るたびに必ず思い出す歌です。 1971年の作品ですが、私は13歳でした。夏休みに体験したようなことが出てきて、歌詞を感じながら昔の懐かしい夏休みのひとときを楽しむことができます。私が中学時代は、フォークソングの全盛期の始まりで、周りの男子はギターを独学で鳴らしていました。よく誰かの家に集まり大人ぶってフォークを歌っていました。私はその中でも吉田拓郎さんの歌が好きでした。「夏休み」「結婚しようよ」「今日までそして明日から」「旅の宿」など、など。

当時のことを調べてみると、「吉田拓郎は「反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やし、時代の流れは確実に拓郎の提示した新しいスタイルに流れていった。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた」(Wikipedia)とあった。

なるほど!だから13歳の私たちは拓郎さんにあこがれ、拓郎さんの歌を皆で歌ったのだと思います。ギターで弾き語りをするととても歌いやすい曲らしいです。自分というものがまだできあがっていない若者にとって、それでいいんだと勇気づけられた曲です。排他的というのではなく、単に明日もがんばって生きて行こうという歌詞がとても心にしみ込みました。
拓郎さんの過去のコンサートなどは最近もYouTubeでよく見ています。昨年、76歳の拓郎さんもカッコよく、歌もトークもしゃべり (MC)も魅力がいっぱいでした。

昨年、 2022年、本年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにしました。急にさみしくなりましたが、拓郎さんは今年77歳です。

「吉田拓郎、76歳。1970年のデビュー以来、歩み続けた音楽の道は決してなだらかではなかった。新作「ah-面白かった」(エイベックス)は“ラストアルバム”と位置づける。「いいエンディングができた、そんな充実感がある」。「やめるな」と言われても、今は言うことが決まっている。「ほっとけよ」――。拓郎さんの今が見られないのは寂しいですが歌はいつでも聞けます。」(2022年7月2日読売新聞)

因みに私のベスト5は、「今日までそして明日から」「洛陽」「永遠の嘘をついてくれ」「人生を語らず」「全部抱きしめて」です。

★2023年8月10日

~ミニジオラマ(ミニチュア、情景模型)~

7月から8月、ミニジオラマに、ももと取り組みました。

ももと私は粘土や工作をよく作っています。仕事をしていた時は、毎年、文化祭のバザーに出すために手作り小物を作るために、家で出た瓶やプラスチックの容器などを宝物のように大切に集めていました。仕事を辞めるにあたり、今後は物をためないと決心しましたが、ももといろいろ作り始めてからは我が家は再び、瓶やプラスチックの容器などで膨れてきました。ももと物づくりを楽しんでいる様子を見た娘が私の創作意欲を掻き立てるミニチュアを次々と購入しています。勿論ももが楽しめるミニチュアです。

先ずは、ポケモンとにんげんたちが集まる、シェアハウス(8個入)でした。「これはここでのくらしは、のんびりきまま、自由な毎日。みんなでおひるねしたり、特別な日にはパーティーをしたり。ポケモンたちの、“ピース”なくらし。ちょっとのぞいてみませんか。」がモチーフになっているミニチュアです。なかなか一つ一つの組み立てが細かくて時間がかかりました。

2つ目は「リーメント シナモロール なないろおそらのカフェテラス(8個入り) サンリオシリーズ」です。

おそらが見えるカフェテラスをテーマにした、シナモロールのミニチュアフィギュアです。シナモンやおそらの色をモチーフにしたアイテムがたくさん入っています。全8種で構成されています。

3つ目が「リーメント シナモロールのレモネードスタンド」をイメージしたミニチュアフィギュアで、これも全8種で構成されています。

この2つは細かいパーツがたくさんあります。例えば、飲み物で言えば中のジュース、ストロー、クリームなどみんなバラバラになっており、全部組み立てます。最後はクラフトボンドでくっつけディスプレイしました。

4つ目は「みんなであそぼうすみっコ縁日」、5つ目は「すみっコお店屋さん」、6つ目「すみっコぐらし電車にのってしゅっぱつしんこう!」です。

私は小さい頃から、お気に入りの風景や想像の世界を、 限られたスペース内で周りにある材料で立体的に作るのが好きでした。紙で作った小さな着せ替え人形のおうちなどを作ったりするのが好きでした。もっと小さい時に、祖父の大事にしていた松の盆栽に小さめのトマトを突き刺してリンゴの木に見立て、下に石を並べて公園のようなものを作ったりしていました。また、小さなソテツの盆栽をパイナップルといって畑を作って植えたりしてミニチュアの公園や畑を作るのが好きでした。本人はいたずらをしている気持ちはなかったと思います?祖父母はいつも「〇〇〇ちゃん、すごいね」と褒めてくれました。やがて大きくなってそのエピソードを聞いて、そういえば祖父母はちょっとしたいたずらみたいなことも、「すごいねー!」と褒めてくれていたことを思い出しました。

子育てで休職中、リースやアクセサリー、雑貨を作って母も含めた家族や仲間と「Shining small shop」という名でフリーマーケット、喫茶店、自宅で開催したりしていました。リースの花を実家の畑で母が植えてくれ、木の切れ端などは父が切ってくれました。

高齢者施設に働き出して、文化祭に手作りショップをするために材料費を最小限にと思い、家ででたビン類などを利用し、小さな雑貨をいろいろ作りました。

アクセサリーは自分や娘が欲しかったのとクリスマスプレゼントにしたいと思い、思いついたときに作っています。

今は、ももといっしょに小さな世界を作るのを楽しんでいます。

★2023年7月10日

7月8日、安倍晋三元総理がご逝去され1年が経ちました。その日、ジャーナリストの櫻井よしこさん他の呼びかけで開催された「世界に咲きほこれ日本―安倍晋三元総理の志を継承する集い」が行われ、「安倍総理は、世界から信頼される輝かしい日本を築くために、そして子や孫たちが希望に満ち溢れる誇りある国を築くために、政治の先頭に立って、力を尽くして来られました。『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』一安倍元総理の言葉を胸に、私たち一人一人が遺志を受け継ぐ心を新たにして参りたいと存じます」という櫻井さんの言葉がありました。

その集いで昭恵夫人が「以前、森総理は神の国、日本は神の国と言って問題になりましたけど、私は間違いなく日本は神の国だという風に思っています。脈々と続いたこの素晴らしい歴史ある日本、本当に主人はこの日本を誇りある国にするために頑張って参りましたので、私もこれから主人の魂と共にこの国のために尽くしていきたいと思っているところですので、みなさんどうぞよろしくお願いをいたします」という言葉がありました。

確か森首相時代の2000(平成12)年5月、「神道政治連盟国会議員懇談会」結成30周年記念祝賀会の挨拶で「日本は神の国」と語られたもので、その時なぜマスコミがワーワー言っていたのか、私は理解できなかったことを思い出しました。

その頃、遠藤周作『深い河』の映画を観て、原作を読んでいました。遠藤周作が生涯のテーマ「キリスト教と日本人」の最終章となった作品です。この物語の背景は、インド人のすべてを飲み込み流してくれる偉大な河、ガンジス。日本人にとっては日常生活から遠のいてしまった「死」が、ガンジスのほとりでは現在でも生々しくうつし出される。ガンジスは実は土着的なヒンドゥー教徒のみに重要なのではなく、どんな宗教に属しようが、あるいはどの宗教にも属しまいが、あらゆる人間のもつ複雑な人生のすべてを包み流してくれる存在ということです。私はインドの神々に日本の八百万の神々を感じました。

狭い意味でのヒンドゥー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教です。ヒンドゥー教の神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えています。

日本人は、昔は、あらゆる自然物、自然現象を“神様”ととらえてきました。自然物というと、海、山、川、滝、池、湖、木、空、岩、田んぼ、米粒、人、動物などがあります。自然現象というと、気象(雷、雨、風、台風、雪)、地震、火山噴火などがあります。それ以外にも、ほとんどすべてのものには、神が宿っていると考えられてきました。私も親からそう教えられて育ちました。日本の神様は、「八百万の神」と言われています。八百万とは、神様が八百万いるという意味ではなく、無限に近い神がいることだそうです。

そして、日本の神話、歴史書である「古事記」、「日本書紀」で出てくる神様。神話では、お伊勢さまと呼ばれている天照大御神、お稲荷さまと呼ばれている宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)などが有名かと思います。さらには、人間の神様といえば、八幡さまと呼ばれている応神天皇、天神さまと呼ばれている菅原道真などが有名です。私は神の国日本に生まれたことに感謝し、子供たちや孫たちのためにもこの素晴らしい日本の国の魂を守っていきたいと強く思っています。

固定ページの「あなたの物語」の№2は30年以上前に東京の編集社に勤務していた時に大学の恩師に取材させていただいたものをリメイクしました。№3、№4は勤務していた高齢者施設に入居されてた方の物語です。その方が語られた不思議な話をいろいろ調べていくと、実際にあったことだと分かり、驚かされたりします。施設でたくさんの方の物語をお聞きしました。

★2023年7月8日

コロナが5類になって母と直に会えるようになり、5月24日に3年5か月ぶりに母の手を握りました。ひ孫のももは何の躊躇もなく、すぐにおおばばの手を握ったり、頭やお腹を察すっていました。その光景を見て胸が熱くなりました。母は終始笑みを浮かべていました。その様子に職員の方も感動していらっしゃいました。その日これからの面会を楽しみにしていましたら、熱発等で5月30日に入院になりました。6月20日に退院した母ですが、食事量が少ないこともあり、ターミナルの話も掛かりつけ医から説明されました。退院後は直に面会でき、母の物語を耳元で読んでみました。目を瞑っている母に聞こえたかどうかは分かりませんが、私の目には母は自分の物語に満足している顔に見えました。その後、7月3日に嘔吐と熱発があり、かなり心配しましたが、抗生剤服用で解熱し、水分は取れるようになり、毎日母に会いに行っています。7月8日、3年8か月ぶりに妹夫婦と会うことができ、ほっとしました。目はなかなか開けませんが、話に「あらそう」と言ったり、ももの大騒ぎぶりに「あらーおとろっしや!」と笑ったりします。盂蘭盆にお墓参りに行くので父に何か伝えようかと尋ねると、母は「どうかやすらかに」と言ったので皆で爆笑しました。

今日も母を訪ねました。母に何か不足はないか尋ねると「何もない。ありがとう」と言ってくれました。

★2023年7月7日

7月7日七夕の日、「ももとばばのお話会」の拡大版を家族5人で開きました。何と20年ぶりの「土地の人旅の人の集い」でした。内容は固定ページ「土地の人旅の人の集い」に載せました。

孫と練習していた「七夕の日~星空は時を越えて~」をパソコンのスライドショーで披露しました。ももが一枚一枚マウスをクリックして次のページに画像を送ってくれました。途中から送りが早くなり、追いつけなくなりました。このスライドは勤務していた高齢者施設で上映していたものをリメイクしたものです。

この集いで読んだ『たなばたのねがいごと』は、何度読んでも感動します。そして絵本ではあまり見かけない女の子と“おばあちゃん”の物語です。「こわれたり なくなったり しないもの? じかんがたっても だいじな もの? それって、なんだろう?」七夕の日、皆で考えました。

★2023年6月20日

5月24日、地域密着型の特養に入所している母と3年5カ月ぶりに面会室で面会できました。この日を待ち続けていました。ひ孫のモモはすぐにおおばばの手を握ったり、頭や体をさすったりしていました。母は目を瞑っていましたが、返事したり笑ったり、嬉しそうでした。

1週間後、母の所に娘も一緒に面会の予定でしたが、前日熱発と下血の為入院になりました。病院は息子の勤務先の病院で、偶然息子が救急の担当で交代時間でしたが母の名前に驚き、主治医になってくれました。面会はまだ出来ない状態です。6月20日治療も終わり、食事量も改善してきたので退院になりました。これから、また母に会いに行きます。

★2023年6月17日

~蛍の光にしばし見とれる夏の夜~

蛍の光にしばし見とれる夏の夜……蛍狩りは日本の風物詩です。梅雨の雨が途切れた夕べ、闇の中を音もなく、いくつもの小さな黄色い光が浮遊する幻想的な情景は、今年も私たち家族を感動させてくれました。

6月10日、金沢城外濠公園の白鳥路へ「白鳥路ホタル観賞の夕べ」に行ってきました。今年は例年より早く蛍が飛んでいたらしく、蛍18匹で鑑賞者は1800人だったそうです。18匹でしたが、ゲンジボタルが宙を舞う幻想的な光景を楽しみながら散策することができます。孫の「こっちに来てー」に蛍もこたえてくれ、孫の頭上をゆらゆらと飛んでくれました。 

金沢ホタルの会の一員である夫は張り切って出かけています。用水の蛍はこれからですので楽しみにしています。
毎年6月に開催される「白鳥路ホタル観賞の夕べ」ですが、白鳥路は、街中でホタルが生息する貴重な空間です。観賞の夕べ開催時は白鳥路の園路内をライトダウンしますので、一層ホタルの幻想的な世界を楽しむことができます。
思い返すと、夫の転勤で金沢に越してきた翌年に「金沢ホタルの会」に入会したように覚えています。かれこれ30年ほど前です。その頃は、近所の子供を誘って白鳥路に出掛けましたが、ホタルの数も少なく、蛍狩りを楽しんでいる人はほとんどいませんでした。それが今や1.000人~2.000人の土地の人、旅の人が訪れています。

環境の変化により一時は激減しましたが、蛍の飛ぶ環境を取り戻そうという動きが各地であり、蛍がみられる場所が少しずつ増えています。

6月17日21時過ぎ、旧中央小学校の側を流れる鞍月用水に蛍を観に出かけました。20数年前にホタルの会の人達等が急な流れを緩やかにするために片側に石を積んだところに自然に土がたまり、草が生えて蛍が生息するようになりました。たくさんの蛍が幻想的にゆらゆらと飛んでいました。白鳥路にいた夫達に聞いた家族も訪れていました。鞍月用水以外の用水にも蛍が飛んでいるそうです。

ちなみに金沢の用水は、数が多く、それぞれの用水が家と家の間をぬけて、網の目のように流れています。 また、水がきれいで、水の量が多いことも特徴です。 現在、金沢の用水の数は全部で55、長さを全部合わせると約150キロメートルになるといわれています。

ホタルに思いをはせていたら、文学作品に蛍の描写ですべてを表現しているものがあったと思い本棚を探しましたが、何か思い出せませんでした。ネットで調べたところ大岡正平の『野火』という作品でした。

「強い光を放つ大きな蛍が、谷間を貫く小さい流れに沿って飛んで来て、或いは地上二米の高さを、火箭のように早く真直に飛び、或いは立木の葉簇の輪郭をなぞって、高く低く目まぐるしく飛んだ。そして果ては一本の木にかたまって、その木をクリスマス・トリーのように輝かした。」「野火(のび) (新潮文庫)」に収録 

仕事を辞めたこととコロナが5類になったこともあり、3年以上メールと電話でやり取りしていた友達と再会したり、また公共交通機関を利用して出かけることができるようになり、孫と一緒に毎日のように出かけたりしているので、何だか忙しい感じの毎日です。

★2023年5月20日

5月20日、新幹線に乗り友人夫妻を訪ねました。3月に35歳の若さで亡くなった息子さんの御霊前に夫と2人でお参りしました。

その友人とは36年前、町で行われていた母親学級で出会いました。息子さんと娘は一カ月違いで生まれ、不思議な縁で出会った家族は離れていますがずーっと心の友です。近年は家族ぐるみでお互いの家を訪問したり、日光、大阪、神戸に皆で旅行を楽しみました。

亡くなった日に連絡があり、言葉がありませんでした。お別れに私たちにできたことは、娘達はお花を手向けさせていただき、私は出会いから思い出を綴ったお別れの手紙をお届けすることでした。

息子さんは入退院を繰り返されていましたが、1年数カ月の闘病生活を最後までご両親が看られ、お気に入りの家で過ごされました。御霊前の可愛い顔に手を合わすことができました。

突然のお別れに、ご家族の計り知れない悲しみを察するに慰めのことばもありません。私は友達夫婦の話をできる限り聞かせていただきました。最後の一滴まで頑張って生きぬいた息子さんの生きざまに心から敬意を表します。35年間の人生は、お父さん、お母さんの心に永遠に刻まれます。そして心の友である私たち家族の心に永遠に刻まれます。

★2023年5月12日

青葉を吹き渡る快い風が吹く頃となりました。家のベランダはライラックの花はほぼ終わり、今は25年以上前に母が株分けしてくれたアッツザクラの濃いピンク色の花が満開です。ここ数年夫に任せてあったベランダいじりをまた楽しめるようになりました。先ず春先にローズベリー、よつぼしの2種類をプランターに植えてみました。もともとあったワイルドベリーとローズベリーの花は咲いて、実を結んでいます。また、昨年は実を付けなかったイチジクが今年は何個か実になっています。梅花空木はたくさんの蕾を蓄えています。なんだかワクワクしてきます。

さて、私は4月いっぱいで仕事人生を無事終えることができました。最後の勤務先である介護付き有料老人ホームを退職しました。退職イコール老朽化した施設の閉業の日になりました。2003年にホテルを転用し、増改築を行いスタートしましたが、配管等はそのままにしたままだったので、施設開所から20年ですが結果的には老築化のための閉業でした。私は立ち上げから閉業まで見届けさせてもらい、やり切った感があります。

昨年10月に閉業が決定し、60人以上の入居者さんの移動先の確保を優先に取り組みました。予定通り2月半ばに全員の移動が無事に終わりました。それに伴い職員の移動や退職の手続きを行いました。自分の部署は相談課、栄養課、事務課が一つの生活サービス部という部署として、各自の専門的な仕事とライフサポーターとして教室活動や生活支援に取り組みました。6人のスタッフで20年間取り組んできましたが、今年1月には私を含む4人のメンバーになりました。そのうちの3人は20年間苦楽を共にした同志です。もう一人は入社して1年半もたっていません。申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、私たちと最後まで頑張ってくれました。残った職員で経理業務や労務業務、すべての残務処理を行いました。4人にとってはどれも初めての業務です。ネットで調べたり、マニュアルを横に会計事務所や職安等に確認しながらやり遂げました。大変な残務でしたが、計画通り4月28日にすべて業務を終了することができました。最後は産廃業者と共同で11階まである建物を空にしました。20年間お世話になった建物に感謝の気持ちを表したく、時間があれば皆で掃除をしました。

最後の日自分たちらしい閉業の式典を行うつもりでしたが、顧問が「セレモニーを開催し、社長や同じ法人の施設長が来る」と言われていました。セレモニーっていったい何だろうと首をかしげていました。建物の引き渡しが終わっても、セレモニー?の参列者は来ません。まったくその気配はありませんでした。私たち4人はキツネにつままれたような気分でいました。顧問が社長に電話を入れましたが、社長が来る気配はありませんでした。私たちは立ちすくんでいました。最後は顧問が自分の思いを語り終わりました。施設長の挨拶もありませんでした。ちょっと意味不明なまま、建物を追い出されるように出ました。私たち4人は自分たちの式典を建物の正面で行いました。何だか寂しい終わり方でしたが、プログラム通り進め、最後に入居者さんが大好きだった「星影のワルツ」と「仰げば尊し」、「蛍の光」を歌い、お酒を玄関に注ぎお別れをしました。寂しさが込み上げました。4人はコロナでずーっと会食などしていませんでしたが、その日は食事をしながら職場のいろいろあった不思議な出来事を振り返り、語りつくしました。私のもやもや感は皆のおかげで浄化されました。

勤務最後のグループメールのやり取りです。

「翌日から、職場に行かないのは不思議な感じですが、次のステップを自分なりに楽しみたいと思います。
皆さん、本当にありがとうございました。今日も語り尽くして、気持ちがさっぱりして心が満ち足りました。
みんなのこと誇りです^ - ^また、お会いしましょう❣️」(私)
「こちらこそ、本当にありがとうございました。大変お世話になりました。たくさん勉強させていただきました。ではお元気で!また会える日を楽しみにしております❗🤗」
「色々ありがとうございました♪お腹いっぱい、胸いっぱい最後すてきな4人で良かった^_^お身体に気をつけて〜又会いましょう♪」
「皆様と一緒に働くことができて、本当に良かったです!大変お世話になりました。最初で最後のお食事会も、豪華で美味しかったです♪ご馳走さまでした!またお会いできる日を楽しみに、これからも頑張ります💪✨本当にありがとうございました!」

★2023年5月1日

~私のライフワークは“編集者”~

2023年4月いっぱいで退職する私は、「仕事」というものを改めて振り返ってみました。「仕事」を考える時にいつも思い出すのが、随分以前に何かで読んだ次の言葉です。

「赤ちゃんは手をぎゅっと握って生まれてくる。片方の手の中に『運命の相手の名前』、もう片方の手に『仕事(使命)』の書いてある紙を握ってくるが、産道の中をぐるぐる回っているうちにその紙を落としてしまう。」

私は小さい頃から本を読むのが好きでした。文学書を中心に川端康成、堀辰雄、太宰治、三島由紀夫、夏目漱石、森鴎外、大江健三郎、高橋和己などを全巻読みました。中学校の頃から私は編集の仕事をしたいと思って、出版社への就職率のいい東京の大学を目指しました。

卒業後、どうしても家に戻ってほしいという両親の意向からYKKに3年間勤務し、結婚と同時に母校の大学の学生課に3年間勤め、その後、業界紙等の編集者として働きました。「ジャーナル」という週刊新聞、「TRY NOW」という月刊誌などの記者であり、編集者となりました。編集者としての時間は夢のようでした。「生き方について」「企業経営について」「人間の知恵について」などいろいろな方に取材して話を聞きました。その当時、著名な作家や画家、企業経営者の人もいました。

「TRY NOW」は高校生向けの雑誌でしたが、その雑誌で、「MY WAY」と「知恵と発想」という2つの連載を担当していました。「MY WAY」ではいろいろな方の人生物語を連載しました。その中でも大学に勤務していた時の恩師である弥一先生を取材できたことは、編集者としての大きな仕事でした。先生は岩手で16歳から小学校の教員をしていましたが、総理大臣になろうと思い上京しました。その日が関東大震災。余儀なく岩手に引き返しますが、再度上京します。必死にあがいてみましたが、総理大臣をあきらめ、たどり着いたのが教員というMY WAYでした。先生と大学の学生課でご一緒に仕事をさせていただいたときは、先生は78歳でした。80歳で退職されましたが、その後、先生とは軽井沢や先生の実家の岩手にも旅行しました。

この「MY WAY」ではもう一人忘れがたい方を取材しました。戦前から戦後にかけて大ヒットした紙芝居「黄金バット」の作者・加太こうじさんの取材です。加太こうじさんは日本の評論家・庶民文化研究家・紙芝居作家ですが、自宅にカメラマンと取材に伺った時は何人もの書生さんらしき人がいました。加太さんはマスコミが嫌いという人でしたが、田舎者の私と少し馬が合ったようです。最終原稿を上野の喫茶店で見ていただけたのも、私には奇跡のような出来事でした。

私が東京で編集者をしていたころは、活版印刷、写植印刷の時代でした。特にジャーナルは新聞版なので、活字一文字を変更するときも全体移動が必要になり、大変な作業です。印刷原稿の校正時にこちらのミスで赤を入れた時、現場から放送で「ジャーナルさん、ジャーナルさん〇〇に来てください」と呼び出しがあり、職人さんからこっぴどく叱られます。そんな時は、四羽烏(私と3人の男性編集者。当時、周りからそう言われていました)のメンバーでじゃんけんをして呼び出しに応じたものです。そのうち最初は怖いと思っていた「おっちゃん」たちとも仲良くなりました。

私の手には「編集者」という紙が握られていたのだと今も思っています。

娘の誕生で10年間ほど仕事はしていませんでしたが、その間は大変アクティブな時間でした。金沢に住んでからShining Small Stone」という house nameで「土地の人 旅の人」というお話し会を開いたり、同人誌『楽門舎』を作ったり、『黒部の伝説考』等自費出版したり、知り合いから頼まれて自費出版の本の編集をしたりしていました。

39歳の時、N&Kという出版社で北陸サイバーマガジン『萬屋』という雑誌の編集長をして、若いデザイナーや記者と楽しい時間を過ごしましたが、残念ながら1年半で廃刊になりました。

その後、知り合いの紹介で介護老人施設のボランティアの文集を作る手伝いをしてほしいということでアルバイトに行きました。それがきっかけで高齢者介護の世界に飛び込みました。その施設ではボランティアコーディネーターなども行い、「本を楽しむ会」という教室等を開いたり、通信を出したりしていました。

この業界は初めてだったので、必要な勉強をしようと思い、まずは一緒に働いている人たちがどんなことを学んでその職業についているのか知りたくて、総論的なものを放送大学で勉強しました。例えば「介護学」「ナイチンゲール白書」「医の倫理」などです。その他に社会福祉士、精神保健福祉士の通信教育で学び資格を取得し、認知症専門士、介護支援専門員の資格も取得しました。そこで学んだことで高齢者介護施設の相談員として働くための基本的な知識は身につけられたかなと思います。また「人間」を知りたくて、心理学・心理療法関係の書籍などもたくさん読みました。

それを基本に介護付き有料老人ホームでの仕事に取組み20年たちました。職種は違いますが、私の手に握られていたと思われる「編集者」の仕事と、ホームでの仕事はいろいろな方の人生物語をお聞きするということでは似ている仕事だと思ってきました。ここでは、ナラティブ療法(物語を大切にするケアの実施)、ゲシュタルト療法(「今ここ」での「気づき」を得る心理療法)をソーシャルワークに取り入れ、入居者さんのこころの物語を言葉として表現できるように支援してきました。また、部署の責任者としてスタッフへのコーチングマネジメント・スーパービジョンの実施を行い、プライドを持ってスタッフが働くことの出来る環境作りを目指しました。

ホームでは23種類の「脳活性プログラム」の運営を行っていました。ボランティア公演は年間約40回の開催。その他世代間交流、看護実習生の受け入れ風物詩的ホームイベントや、いろいろな領域から講演者をお願いして「共に生きるフォーラム」など年間30回以上を開催していました。私は「脳活性化プログラム」では「脳生き生き教室(脳を学び脳活性)」「心を見つめるレッスン(認知行動療法)」「朗読を楽しむ会」「民謡を楽しむ会」「生活懇談会」を行っていました。

その中で、入居者さんの人生物語をたくさんお聞きしました。入居されるときに必ずお聞きするその方の「フェイスシート」はすでに人生物語です。毎月発行している「出会い通信」では「MY WAY」というコーナーで再度何人かの人生物語をお聞きし、連載していました。

作家の外山滋比古は『思考の整理学』に「ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的統一にもたらしてゆくひとつの奇跡、個人の奇跡を行うことにほかならない」と述べています。私は一生をかけてする仕事や事業、それがライフワークであると考えたときにいつの時も「編集者」という自分が見えてきました。仕事をリタイアしますが、これからShining Small Stoneとしてブログを立ち上げ、自分の原点を見直して、いろいろな物語を綴ってみたいと思います。