雑誌の編集をしているとき、「MY WAY」というコーナーを担当していました。「MY WAY」ではいろいろな方の人生物語を連載しました。最後の職場(高齢者施設)では、入居者さんの人生物語をたくさんお聞きしました。入居されるときに必ずお聞きするその方の「フェイスシート」はすでに人生物語です。毎月発行している「出会い通信」には「MY WAY」というコーナーで再度何人かの人生物語をお聞きし、連載していました。

私が37歳の頃、母が胃がんになり、入院した部屋の皆さんと仲良くさせていただきました。それぞれの人生物語をたくさん聞かせてもらいました。母が退院するときに、病室の皆さん5人がエレベーターの前まで送ってくださり、「何もかも、話尽くしました。聞いてもらってありがとう」と手を握ってくださいました。それからすぐ4人の方がご逝去されました。

私は出会った皆様の一人一人のかけがえのない人生物語を大切にしたいと思ってきました。まずは父の物語を掲載してみました。

<目次>

あなたの物語№1 ~いつも不足を言わず、家族に満足し「まあ、最高に幸せやね」が口癖だった~

あなたの物語№2 ~教員生活62年、「休まず、遅れず、働かずの弥一です」と弥一は胸を張る~

あなたの物語№3 ~それではと思い、好きな土地に行って働こうと思う…金沢から尼崎から東京~

あなたの物語№4 ~最後に思えたこと「生きてきたことこそが素晴らしいことなんだ。」~

あなたの物語№5 ~「大いに東京の生活を楽しんでいます。本当にありがとうございました。」~

あなたの物語№6 ~米作、ハルの物語(祖父母の物語)~

あなたの物語№7 ~母親の一つ一つの言葉を運命のような感じがした。歳がいけばいくほど母親のことを思う。母親は神・仏と同じ存在~

あなたの物語№8 ~『茨道 峠の明かり見えてきた』~

あなたの物語№9 ~「寿命が来るまで生きてほしいと言ってくれる人たちがいる」~

あなたの物語№10 ~「わしらみたいに年になると、わからんことも分かりたいという気持ちになるもんや」~

あなたの物語 №10

~「わしらみたいに年になると、わからんことも分かりたいという気持ちになるもんや」~

外次郎は、96歳の時、息子の住む金沢の施設へ移り住んだ。家族は外次郎のことを「今も自分のことはすべて自分でできる人物。自立し、人生を過ごし続ける人。自分で納得しながら進むタイプ」と言った。

外次郎は2004年(平成16)年5月から2011年(平成23)1月、104歳で亡くなる6年半の間高齢者施設で暮らし、施設の応援団長的存在だった。

外次郎は高齢者である当事者として「年を取るということ」についていくつもの「外次郎語録」を残した。特に感銘を受けた言葉は、「わしらみたいに年になると、わからんことも分かりたいという気持ちになるもんや」である。

99歳の時、「99歳、夢のようです。はやから100歳になろうなんて考えていなかった。これからは周りの皆さんにできるだけ迷惑を掛けないようにやっていきたい。5~6年前から徐々に体が衰えてきてはいましたが、去年まではあまり気がつきませんでした。皆さんも、私ぐらいまで生きれば、一緒のことを感じられると思います。お金には不自由ないですが、肉体的にさみしい。どなたもいっしょでしょうけど、これからは一日一日を考えて生きます。『今日も一日済んだ』『今日も一日始まる』という感じで過ごしていこうかねぇーと思っています。」

外次郎は毎日、夕刊が届く頃にフロントに来て、気の合う入居者と時事懇談を活発にしていた。現在何が世の中に起きているのか、どんなことがブームなのか、きれいな“おねいさん”が出ていないか、隅々まで目を通し、分からないことは回りに聞く、それでも腑に落ちないようだったら、パソコンを指さしこれで調べてほしいと依頼する。毎日 “外次郎節”が炸裂していた。ちなみに外次郎は「わしは顔が細いから丸い顔の女の人が好きやね」ということだ。

外次郎は、1908年(明治41)1月、石川県小松に生まれた。尋常高等小学校卒業後15歳から東京の陶器問屋で丁稚奉公をしたが、17歳の時、関東大震災のため小松に戻り、瓦の工場に勤務する。19歳の時、国鉄の入社試験を受け、念願の国鉄職員となり、55歳の定年まで車掌、助役として勤務する。その間、東京、大阪、新潟等と転勤生活を送り、40歳の頃、金沢に暮らすも、戦争の状況が厳しくなり、羽咋に居を移した。その後、日本交通観光社で75歳まで勤務し、主に修学旅行の添乗員をした。

車掌をしていた頃の楽しみはコッペパンだった。戦時中車内販売でコッペパンを販売しており、販売は一人1個と決められていたが、余ると4~5個分けてもらっていた。大阪での仕事中B29の爆撃に遭い、自分は防空壕にいち早く逃げたが同僚が逃げ遅れ亡くなった。「何でもあるもんや。」

25歳の時、知人の紹介で羽咋出身の妻と結婚し、一女一男をもうける。

妻は、和裁の先生をしていた。また花の会の役員もしていたがその関係で、菊を作っていた。外次郎はその手伝いをして川から砂を取ってきて粘土と混ぜ土を作ったり、鉢を動かしたり・・20年程続けていた。仕事が一昼夜交代で時間があったからできた。

「年老いて 頭ぼけたが 気は元気」外次郎の最後の句。

あなたの物語 №9

~「寿命が来るまで生きてほしいと言ってくれる人たちがいる」~

はつは、大正2年(1913年)10月25日、福岡県糸島群北崎村に生まれる。1男5女の6人兄弟の末っ子。尋常高等小学校卒業後、農業の手伝いをする。実家は庄屋で、人を雇って農業をしていた。本人は、看護婦になりたくて福岡市の病院で見習いをするも、長続きせず20歳頃、英語を話せるようになりたいと思い、神戸の外国人経営の食品店に勤務する。YMCAでも英会話を習う。戦争が激化し、福岡に疎開する。戦後、福岡市で進駐軍のオフィスで電話交換手の仕事をする。しばらくして再び神戸に移り住み、神戸の進駐軍のオフィスで電話交換手をする。23歳の時、中国系の会社に勤務している金沢出身の松男と結婚する。子供には恵まれなかった。結婚後、金沢に移り、夫の母親と同居する。夫は片町の洋服店に勤めた。はつは進駐軍の電話交換手の仕事をしばらく続け、その後専業主婦となる。夫が平成16年(2004年)6月2日(93歳)に亡くなり、その後独居生活となる。平成17年(2005年)3月5日、家の老朽化と本人が年齢的に「こういう所に入る年かな」と思い有料老人ホームの自立型の居室に入居した。保証人は甥の嫁。

はつは、「何事も天に任せている。考え方でどうにでもなる。だけど、人間というのは難しい。いろいろな人が居るが、自分はいろいろな経験をしてきたから今がある。身内が居ないので、自分がしっかりしないとどうしようもない」と思い生きてきた。谷口雅春の思想、『生長の家』を信仰している。

はつは、特定の人とのお付き合いはしない。自分は自分。金沢の人は、気持ちを心に持ったまま過ごしているようだ。自分は直ぐに何でも言っているので、周りからは嫌われているかもしれないと思っていた。

平成19年(2007年)7月、末期の胃癌で、貧血のため転倒、腰痛と熱が続きそのまま9月20日入院となる。入院中病棟の主治医から本人同席のインフォームドコンセントが3回行われた。延命治療はしないという本人の意志に従い、今後の予測されるリスクについて一つ一つ医師との確認作業が行われた。結果、「痛み・苦痛の緩和に必要な治療は行う」「人工呼吸はしない」「心臓マッサージはしない」など細かい確認が本人に行われた。7カ月の入院の間、痛み・苦痛の緩和に必要な治療ということで輸血と胃ガンによる吐血の苦痛を取り除くためにステント治療が行われた。不運なことに身体的に安定していた時期に転倒し、大腿骨転子骨折、手術を受けることになった。

はつは、入院してから有料老人ホームの職員(ライフサポーター)と深い関わりが始まった。はつは、生きなければならない意味を職員と一緒に考えた。入院当初や骨折後、また吐血後は「死にたい」「なぜ、早くお父さん迎えに来てくれないのか」「わたしの業や」と繰り返し言っていたが、「自分は一人じゃないこと。人生の最後に出会った人たちがいること」「寿命が来るまで生きてほしいと言ってくれる人たちがいること」などちょくちょく見舞いに来てくれる施設の職員との会話を通して実感していく。それはとってつけた「生きる希望」かも知れないが、はつは苦しみながらも、以前より自分のことを話すようになった。

最後の日の断末魔の中、「私を待ってくれている施設に早く帰りたい」と何とも言えないうれしそうな顔をして職員に伝えた。

平成20年(2008)4月26日未明、はつは他界した。享年94歳。はつの死に顔は、先日の苦しい様子から想像できない穏やかな顔をしていた。「お父さんに迎えられてうれしそう」に旅立ったはつは、希望通りに大学附属病院に献体となった。

あなたの物語 №8

~『茨道 峠の明かり見えてきた』~

義紀は1931年(昭和6年)4月、富山県小矢部市で生まれる。兵隊になるつもりだったが、終戦になり、師範学校(富山大学教育学部)に入学し、教員になる。

石動、砺波等の中学校、高校の英語教員を32年間行う。その後、金沢の専門学校、予備校に13年間、71歳まで勤務する。仕事を辞めてからは、富山の国際交流協会で病に倒れる平成28年5月(85歳)まで、月に1度、英字新聞の講師をしていた。義紀は30歳頃、小学校の教員である妻と結婚し、1女、1男を儲ける。

義紀は1945年(昭和20年)6月、15歳の時、志願兵として南砺市にある滑空訓練所で訓練を受ける。

「お国のためですので、理屈など抜きで志願しました。」

志願兵の応募者資格は、本来であれば操縦生徒は満17歳以上19歳未満、技術生徒は満15歳以上満18歳未満であった。いずれも高倍率のなか試験を通ったものが、日本各地の航空関連学校で一般教育を受け、その後修業1年の操縦者と、2年の技術者とに分かれ、いずれも卒業後は陸軍伍長に任官し飛行戦隊始め各飛行部隊に配属される。

しかし義紀の受けた滑空訓練はたった1か月であった。この1か月は「地獄の特訓」で、その後の義紀の生きる原点となる。

義紀は「世の中にどんな苦しいことがあっても、これ以上の苦しみはない。それからの人生はどんなことがあっても耐えられる」と思う。

8月15日、玉音放送を聞いたが、義紀は「神風が吹く日本。絶対負けるわけがない」としばらくの間、日本が負けたことを受け入れられなかった。

そのうち将来の不安が高まり、とにかく学校に行こうと思い、福野農学校と富山師範学校の入試があったので受験することにした。たまたま合格発表が早かった師範学校に入学することにした。師範学校は富山市にあり、自宅の小矢部から電車通学を行う。

通学の電車には大阪から進駐軍が乗ってきた。アメリカ人は高岡駅に停車中、ホームでタバコを吸ったり、チューインガムを噛んだりしながら英語をしゃべっていた。その様子を見て、なぜか英語を勉強したくなった。本屋で英語の本を求め独学するがなかなか英語力は高くならないことから、学校で英語を学ぶことを考える。このことが、英語の教師になるきっかけになった。

中学校、高校の英語教師、専門学校、予備校の英語教師と長い教員生活を送った。その間にはいろいろなことがあったが、何があろうと「あれ以上の苦しみはない」と乗り越えてきた。

晩年、入退院を何度か経験しているが、病気のことは淡々と受け入れ、自分らしく暮らす。何があろうと「あれ以上の苦しみはない」と考える。

2008年12月 左腎癌の摘出手術。8年後の2016年6月転移あり、病院にて後方除圧回避術施行した。病院に入院しているときの七夕の短冊に「茨道 峠の明かり見えてきた」と書いた。

病気になってからは特に感じたことは、「家族の支えのありがたさと、1か月間の滑空訓練の経験、この2つが自分を支え、『茨道 峠の明かり見えてきた』を信じて、残された人生も自分らしく生きていくことができると思った。

退院後12月に高齢者施設に入居する。どこにいても義紀は変わらない。なるべく自分でやってきた英語の力を衰えさせないように、英字新聞を隅から隅まで読む。気分が滅入った時でも、英語に触れていると気分が高まる。

施設の職員、家族、兄弟の自分に対しての期待が、今を生きるための励みになっていた。

2019年、88歳の義紀は帰らぬ人になるが、病院のベッドの枕元には最後の日も英字新聞が置かれていた。

あなたの物語 №7

~母親の一つ一つの言葉を運命のような感じがした。歳がいけばいくほど母親のことを思う。母親は神・仏と同じ存在~

みよ子は77歳の時、意欲低下、食欲減退著しく、老人性うつ病と診断され、精神病院に半年間入院した。退院後は金沢の長男夫婦が関わり自宅で生活したり、神奈川の娘の家で暮らしたりしていたが、2008年4月再び意欲低下、食欲低下で長男家族と同居し、精神科に通院しながら生活をした。主治医の勧めから、2010年(平成22年)5月に介護付き有料老人ホームに入居する。同施設は、脳活性化に取り組んでいたが、みよ子はそこで徐々に以前の自分を取り戻していった。認知行動療法を取り入れた14の教室活動、3つの懇談会、月3~4回行われる催し物、外出ツアーとほぼすべてのものに参加していた。その生活は2016年(平成28年)2月まで続いた。2015年10月うつ病が大分快復していると感じ、長男嫁と相談して7年間通院した精神病院から施設に近い診療所の精神科にかかりつけ医を変更する。新しい医師から「調子が良いので薬を減らしましょう」と言われ、本人は喜び、涙を流した。3か月後、徐々に気分が不安定となり元の病院に入院となる。元の主治医は「精神科の薬は飲んでいていい状態であれば服薬状態を変えないで、薬をメガネのようなものだと思って飲むものなんですがね」と説明があった。9か月間入院治療し、施設へ戻りゆっくりゆっくりの生活をスタートしたが、退院14日後脳梗塞を発症し、救急搬送された。入院中に再度大きな梗塞を発症し、施設を退去することになった。みよ子88歳の時である。

みよ子は1928年(昭和3年)3月31日に羽咋で生まれる。男2人、女3人の5人兄弟の上から4番目。尋常高等小学校、女学校(4年)卒業後、挺身隊で行った富山不二越工場で飛行機のベアリングの検査部で働く。その後、羽咋にも工場ができ移動する。終戦後は能登織物工場に結婚まで勤務する。20歳の時、高校の先生の紹介で三郎と結婚し、1女1男をもうける。子育て、家事をしながら、夫の自営の制服卸売業の仕事を手伝う。40歳の時、夫が逝去したため、呉服の販売の仕事を行って生計を立てる。呉服の販売は訪問販売をしたり、家の一室に呉服を置いて販売したりして70歳まで続ける。娘が夫の赴任先のオーストラリアでお産した時、数カ月間オーストラリアで孫の世話をする。76歳頃(2005年)までは詩吟など趣味を楽しみながら、羽咋で独居生活を続けていた。

みよ子は、4歳から母の手一つで育てられた。「6歳の時、学校で靴を取られた時『とったんじゃなくて、盗られたのでよかった』と母ちゃんが言った」など、母親の一つ一つの言葉を運命のように感じていた。歳がいけばいくほど母親のことを思う。母親はみよ子にとって神・仏と同じ存在であった。

晩年、みよ子が教室などで語ったあふれる言葉がある。そこには母への尊敬の念がたくさん語られている。また、自分の心を見つめた素直な表現がにじみ出ている。

「女学校の頃から続けている日記を書いている時が楽しく、大好きな時間。日記帳ではなく、ノートに書き新聞やイベンドで頂いたものなど記念になる物は貼っています。」

「ひ孫を授かったことが、何とも言えない喜び。今はただただ感謝の気持ちでいっぱいです。」

「新聞で梅がほころんだとか折々の話に触れ、寒い冬に堪えたたくさんの自然に感動します。・・・あんなに小さい渡り鳥が想像もできない距離を飛んでいく・・・・自然の神秘、不思議に感動し、励まされて生きています。」

「年を取るということは、周りの優しさを深く受け止められることができるようになるということです。」

「とにかく今日の日になって、自分が素直であることがなおさら大切だということを思いました。」

「(平成23年)10月20日、皇后陛下がだんだん自分の仕事の動作が遅くなってきましたと言われていました。また、物忘れのことに触れ、加齢のせいであるということも素直に受け止めたり、またそれでは困まることをバランスを取っていくことが必要と話しされていました。私も素直に受け入れて、寂しくなく、幸福であることを感じて生きたいと思います。皆さんのやさしさに心から感謝しています。」

「子供の頃、母親と一緒にあせもに効くとか言って塩水を汲みに海に歩いて行きました。丁度夕暮れで夕陽が見えます。その時の風景が嬉しいような、悲しいような景色として心に残っています。」

「好きな言葉は、普通の母ちゃんなんだけど、私は母を尊敬しています。その母が良く言っていた言葉ですが、『気は長く、勤めは堅く、色は薄く、食細くして心広かれ』です。」

「冬の日の思い出は・・・今年は大雪で今まであまり思い出さなかった冬の事を思い出しました。小さいころ道具の多い授業の日にマントを着て帽子をかぶって、雪に向いました。その時の姿を思い出して頭のてっぺんから、足の先まで母親の思いやりがいっぱい詰まっていて、母への思いがこみ上げてきます。」

あなたの物語 №6

~米作、ハルの物語(祖父母の物語)~

懐かしい祖父母(米作とハル)の物語を私の記憶と写真、そして「原戸籍」を辿りながら紡いでみます。

米作は1907年(明治40年)2月26日、黒部市村椿出島村に生まれます。島松次郎の5男2女の末っ子です。母が言っていたことですが、米作は地面に足が着くまで母親におんぶられていた甘えん坊だったそうです。

ハルは1902年(明治35年)2月20日、黒部市田家の山田源次郎の3女に生まれました。

この2人が結婚することになったのは、ハルが1929年(昭和4年)4月8日、27歳で松次郎の次男石次郎と三度目の結婚をしたことからです。石次郎は家の屋根から転落し、それが原因で翌年9月29日に逝去します。ハルは「石次郎とは3度目の結婚でしたが、前夫たちがぶおとこだったから出てきた。そんな自分に罰があたったから、最後まで誠心誠意看病をさせてもらった」。その様子をみた義父が5男の米作(24歳)と結婚させました。ハルは米作の5歳上の年上女房です。

2人の間には子供がいませんでした。1937年(昭和12年)9月8日に米作の兄磯次郎(長男)の次男忠一を養子に迎える。忠一は1927(昭和2)年3月27日生まれ。養子に入った年齢が10歳になっていたので、なかなか養父母の言うことを聞かなかったらしく、毎日のようにおもや(実家)に行っていたようです。忠一は隣村のとしと結婚しますが、としの亡くなった母親はハルの姉でした。ハルはとしの父親と相談し、忠一ととしが小さい頃に許嫁という約束を取り交わしました。

ハルが米作と5歳年下ということもあり、とにかく米作を大事にしました。

1966年(昭和41年)にハルは脳卒中で倒れ、1週間後の4月27日に逝去しました。享年64歳でした。私が8歳、小学校3年の時でしたが、ハルは草餅を作るために朝早くヨモギを摘みに出かけ、帰って来て玄関で倒れました。倒れてから1週間の間に親戚などの知り合いが近隣、遠方からもたくさんハルに会いに来てくれました。ハルは2度目を開けましたが、その時には「私が学校に行ったか」と確認したり、私の名前を呼んだりしました。玄関の一番近い部屋で、最後まで家族が側にいて看取りました。にぎやかで静かな1週間でした。祖母の葬儀、野辺送りにはたくさんの方が参列してくださいましたが、その光景をはっきり思い出すことができます。

私が1歳頃から、よく村の旅行などに連れて行ってくれたようで、写真がたくさん残されています。ハルは当時の女の人では背の高い方でした。私が近所の家の掘り炬燵の鉄瓶でやけどをして、母の実家でのお正月の集まりに行かないことにしましたが、夕方になって「お母さんの所に行きたい」と泣いたらしく、ハルは私を隣村まで負ぶって連れて行ってくれました。片道30~40分はかかると思いますが、何も怒らずに黙々と背負ってくれました。何かにつけ、私のやることに喜び、褒めてくれた祖母でした。

米作は1981年(昭和56年)9月12日、74歳で肝臓がんのため逝去しました。肝臓がんと診断され3カ月、最後の10日間は入院しましたが、亡くなる1年前の4月に、私の結婚式に参列し、7月に年寄り会で富士山のふもとまで旅行を楽しみました。亡くなる年のお盆のお墓参りの時、一緒に墓掃除に行った私に「最後やなあ」とつぶやいていた米作のちょっと寂しそうな後姿が目に浮かびます。

米作は30代前半、1937年(昭和12年)7月7日に勃発した支那事変で徴兵され、満州に従軍しています。

米作は「支那事変従軍記章」(勲章)を大切に仏壇にしまっていました。米作の寝床には軍服を着て馬にまたがる写真が柱にかけられていました。

米作が徴兵され金沢にいたとき、ハルは忠一の許嫁のとし(当時10代)を米作に合わせるために、金澤陸軍兵器支廠の兵器庫(現、金沢歴史博物館)で面会したという話を、としがよくしてくれました。

米作は、黒部の建設省に勤めていました。建設省は、1948年(昭和23年)1月1日から2001年(平成13年)1月5日まで存在していた日本の行政機関です。国土・都市計画、市街地整備、河川、道路、建築物、住宅政策、官庁営繕などに関する行政を取扱っていました。 現在は国土交通省に再編されています。米作は黒部川改修事務所(昭和33年~黒部工事事務所<建設省北陸地方建設局>)に勤務していました。60歳過ぎても働いてたと思います。

名前は米作でしたが、勤め人だったので米づくりは祖母と父母がしていました。米作は当時としては背の高いハイカラな人でバーバリーのコートなどを着たり、背広をよくオーダーメイドしていました。スクーターでなくオートバイにも乗っていました。近所ではどこの家より早くカメラがあり、白黒テレビ、カラーテレビ、洗濯機、冷蔵庫など流行り物をいち早く購入していました。カメラがあったおかげで、たくさんの思い出の写真が残されました。

職場では現場の責任者をしており、優しい人だったので人夫(にんぷ)の人には人気がありました。現場によく私を連れて行きましたが、優しい親方の孫娘なので周りの人から可愛がられたことを覚えています。雪の日は夜中に電話で出動要請がありますが、現場に赴き除雪の指揮を執りました。冬の間は毎日のように電話がありましたが、祖父は嫌な声ひとつせず、家を出ていきます。

祖父は歌がうまいということで、慰安旅行などでも越中おわら節などの民謡、歌謡曲をよくリクエストされていました。その慰安旅行には私をよく連れて行ってくれ、歌の審査員をさせてもらいました。その時に職場の人にチューリップのじょうろをプレゼントされ、米作が大変喜んでいた顔が忘れられません。

米作の「越中おわら節」は素晴らしかったです。「一節一声」、一小節を息継ぎなしで歌います。一小節が終わるに従い音が高くなっていきます。

祖父の年齢の人で字の書けない人が村に何人もいて、よく書類の代筆をお願いされていたり、老人会の役員をして旅行などの世話をしていましたので、村のおじいちゃんおばあちゃんが毎日のように私の家に集って、お茶を飲んでいる風景を思い出します。

あなたの物語 №5

~「大いに東京の生活を楽しんでいます。本当にありがとうございました。」~

西岡さんは1924年(大正13年)1月1日東京で生まれる。2004年(平成16年)6月28日80歳で逝去するまで東京に住む。

1996年(平成8年)11月、西岡さんは妻と一緒に金沢のShining small stoneの「土地の人 旅の人」というお話会に参加した。その時の西岡さんの「気持ち」についての語りである。

「おじいちゃんが戦争時代、海軍で出会った友だちがいる。おじいちゃんは、その友だちは死んでしまったと思っていた。でも、その友だちは生きていて、一生懸命おじいちゃんを探してくれてた。今から 4年前、50年ぶりに電話がかかってきたんだ。50年も会っていなかったのに、その電話で声を聞いただけで、『やつだ』とすぐ分かった。それは2人の気持ちがつうじあっていたということ。それから年に一度会おうかということで、毎年広島に行くことになって、その帰りにここによることにしているわけだ。

今日のおはなし会の題は『きもち』ということだけど、人間というのはおじいちゃんの友だちがおじいちゃんに会いたいと思っていたように、思っているということがあれば、かならずつうじあえるということ。思っていないとつうじない。いくらやってもつうじない。だから勉強したいと思っていれば、勉強はするようになる。またできるようにもなる。したくないと思うと、したくもなけりゃしないし、ものごとが分からないような人間になるよね。勉強ばっかりじゃないよね。あの子と友だちになろうと思ったら、かならずその子と心がかようようになると思うしね。みんなで楽しく生きようと思う気持ちになれば、みんな楽しく生きられるようになる。世の中というものはまわりまわってくるもんだからね。みんなそういうような気持ちで楽しく生きてもらいたい。そういうことがおじいちゃんのいう気持ち。今日の『きもち』の集まりによろこんできたという気持ち。」

1997年2月、西岡さんからシャイニング・スモール・ストーンのお話会に集う皆に手紙が届く。

「シャイニング・スモール・ストーンの皆さん、お元気ですか。おじいちゃんが入院中といっても、去年の十一月から十二月にかけてのことで早くも二ヵ月になってしまいましたが、本当に激励のお便りをいただきありがたく、厚くお礼申し上げます。

シャイニング・スモール・ストーンの健さんがわざわざ病院まで見舞いくださり、 その際、皆さんの寄せ書きが贈られたのにはびっくりしたり、うれしかったりなんとも言いようのない感激に浸りました。

皆さんには、ただ一度お会いしただけなのに、それも何時間かの間のおはなし会だったのにもかかわらず、一人一人の方から絵入りのメッセージをいただくなんて考えてもいなかったのですから、その喜びは言葉に現わせないほどでした。しかも、初対面のお母様方からも励ましのコメントまで添えられて気恥ずかしさまで感じられるほどでした。

病院の看護婦さんも、わざわざ見せてくださいといって、うらやましげにのぞいていきました。西岡さんは塾の先生でもしているんですかと聞いていた人もいるほどです。病院の中ですから話題になった様子で、他の患者さんとも親しくしてもらいました。

ここの病院はミッション系なので、患者さんも修道士さんやシスターもいるし、看護婦さんはほとんどシスターで、礼拝や日曜教会もあり、おはなし会の本家みたい所なので、なおさら子供たちのメッセージが目についたのでしょう。

そんなことで、おじいちゃんは入院生活四十日を楽しく過ごすことができましたし、治療の方も順調に回復することができました。これは皆さんの励ましの声が大きく左右していたことを改めてご報告してお礼の言葉と致します。誠にありがとう存じました。 機会があれば、また皆さんにお会いして楽しい一日を過ごすことができますよう心から期待しております。今日は“地球”というテーマのおはなし会とのことですが、問題が大き過ぎて大変ですね。でも、人間は地球に足をつけてしっかり生きているわけですから日常のことは何でも“地球”にまつわることなのですね。そんな気持ちでお話を楽しんでください。東京は寒いといっても皆さんの金沢よりは暖かいようです。冬の金沢なんてロマンチックな気がしないでもありませんが、おなじ地球の日本の中で大した違いもありませんよね。

毎日を元気に自由に楽しく生活してください。おじいちゃんも、おばあちゃんも、大いに東京の生活を楽しんでいます。本当にありがとうございました。

スモール・ストーンちゃん達へ  敬具」

1993年(平成5年)7月、私たち家族が金沢に引っ越して来た翌年から西岡夫妻は毎年秋に金沢を訪れ、我が家に宿泊され、それに合わせて両親も一緒に時間を過ごした。懐かしい思い出である。

西岡さんと私が出会ったのは1984年(昭和59年)、印刷時報社という上野にあった出版社で働いた時からである。その会社では週間新聞の印刷ジャーナルと月刊誌などを出版していた「装丁コンクール」「カレンダー展」も開催していた。私が入職した頃には若手の記者が6人程いたが、西岡さんは私たちの指導員のような役割であった。その頃、西岡さんは60歳過ぎで、たばこをくわえ、赤ペンを持ち私たちの原稿をバッサリ切っていき何回もやり直しをさせられた。私の最初の原稿はほぼ全行赤線だったと記憶する。

最初は東京弁のべらんめえ口調の鬼の指導員という感じだったが、慣れてくるとその口調に愛情を感じるようになった。週間の新聞の締め切りが終わった日に、よく皆を飲みに連れて行ってくれた。よく行ったのは上野のガードレール下の飲み屋やビアホール、おしゃれな所で言うとプールバー。そして、常連客になった湯島天神下、不忍池近くの小料理屋風居酒屋三四郎にはちょくちょく行っていた。三四郎の上の方に新聞の印刷会社があり、週の半分はそこに詰めていた。三四郎のおかみとも仲良くなり、西岡さんは「編集長、編集長」と呼ばれ、焼酎に三四郎上げ、焼き鳥・・・どれもおいしかた。酔いが回ると西岡さんは『東京音頭』を歌い、皆で踊り出すのが常であった。仕事の話もしたが、クジラの養殖について真剣に語り合ったこともあった。周りにいた常連客とも顔見知りになり居心地のいい場所であった。

若い記者は過酷な仕事に音を上げ、辞めていくので出入りは何人もいたが、4人(周りからは四羽鴉と呼ばれていた)は比較的長く西岡さんと一緒に仕事をした。

西岡さんは四羽鴉を連れて水道橋だったか馴染みの「竹の子」という小料理屋風居酒屋や銀座のバーに連れて行ってくれた。突然の道行きになるので、持ち合わせがなく皆でできるだけ現金で支払うのだが、足りないお金は西岡さんが「つけといてくれ。おれの香典だ」と酔った勢いで言い出す。時には西岡さんの家にも押しかけたりした。西岡のおばちゃんは嫌な顔せず、迎えてくれた。私以外の3人は西岡さんの原稿を書く屋根裏部屋に寝かされていた。夢のような時間だった。

途中で分かったことであるが、四羽鴉の一人(九州出身だったと思う)の亡き父親と軍隊で一緒だったのが分かった、サムシンググレート。数年後、四羽鴉も退職し、西岡さんも仕事を辞めたが、西岡夫婦、娘さんとは家族ぐるみで、西岡さんが亡くなり、おばちゃんが亡くなるまで続いた。私の娘は西岡夫妻を自分の「おじいちゃん、おばあちゃん」と思って育った。その縁で、「土地の人 旅の人」のお話会への参加が実現できた。

西岡さんの「気持ち」についての語りと手紙を読むだけで西岡さんの「あなたの物語」を感じることができるが、私が覚えている西岡さんの物語を時間を遡り、調べながらもう少し綴ってみたい。

西岡さんは東京生まれの生粋の江戸っ子。1人息子。西岡さんは、明治学院専門学校(現、明治学院大学)在学中、1943年(昭和18年)に学徒出陣となり、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊となる。そこで妻の兄と出会う。

学徒出陣とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系〈および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の〉学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。霞ヶ浦海軍航空隊とは、1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立され、1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当した。(『ウィキペディア(Wikipedia)』参考)

戦後、職歴は分からないが、区報(広報誌)、業界紙などの記者・編集者の仕事をする。最後の職場印刷時報社だった。

「西岡さんはね、羽振りのいいときは頭にタオルを載っけて銭湯帰りにタクシーに乗って銀座に飲みに来ていたの」と銀座のママが言っていた。最後まで自由に生きながら縁を大切にするカッコイイ人だった。

あなたの物語 №4

~最後に思えたこと「生きてきたことこそが素晴らしいことなんだ。」~

かずひろは1947年7月7日、七夕の日に金沢に生まれる。3人兄弟の真ん中。地元の高校を卒業後、タイル職人として働く。

両親と同居し、父親が52歳で逝去した後、2007年に母親が85歳で逝去するまで2人で暮らす。弟は50歳代で肺がんのため逝去。母親逝去後、独居生活を送る。気ままに暮らし、近所に住む従妹が週3回食事を届けてくれていた。

2016年11月、仕事に出掛けようとしたとき、呼吸苦で病院を受診。入院となり検査を行う。大量の胸水があり、末期の肺癌胸腔内播種で、抗がん剤治療をしながら残された時間を施設で過ごすことを決心する。施設に入居したかずひろは、頭が空っぽになりどうしていいかわからなかった。職員には「少し前まで働いていたのに、もうダメなんだ。どう考えていいか分からない」言いながら、「今まで気ままに生きてきたのでマイペースに気ままにボーっとしていたい」と口にする。

兄は「かずひろは、時間があれば、ごろごろ横になっている生活、身体が病魔に侵されていても感じなかったという状況だったと思います」と言う。

かずひろが施設で過ごされた時間は7カ月だった。苦しい闘病生活だったが、職員に自分のことをぽつぽつと言葉にするようになっていた。施設の懇談会、忘年会、新年会、おひなさま、納涼祭などに参加した。かずひろのどの写真も兄が想像できない楽しいものだった。納涼祭でレイをかけ、アロハの声掛けに「アロハ」と自然に答える自分にびっくりもする。ジュースでの乾杯だったが、「乾杯!」と力強い弾んだ自分の声にも驚いた。

その年の「ゆく年くる年」という行事には体調が悪く参加することができなかったが、そこでパネル上演しながら朗読された『それでも僕は夢を見る』(文/水野敬也、画/鉄拳)のコピーを職員が届けてくれた。かずひろは、それを読んで涙が止まらなかった。「生きること、そのものが、輝きでした」 という一文が一番心に残った。なんにもなくても、夢破れても、なにも成し遂げていなくても生きてきたことこそが素晴らしいことなんだと思った。

翌年7月5日、息苦しいということで入院した。7月7日の誕生日にお見舞いのお花と、誕生日カードを職員3人が届けてくれた。かずひろは、経験したことのない出来事に素直にうれしいと思った。3人の職員がバースデーソングを歌い、七夕さまの歌を風鈴の音つきで歌ってくれた。「こんなこっとってあるんだろうか?」その日、かずひろは何度も思い返した。

入院してからは毎日、代わる代わる職員が会いに来てくれた。かずひろは苦しい呼吸の中、「こんなことって本当にあるのか?」と思いながら、自然ににっこりしている自分を愛おしく思った。

2017年7月14日、かずひろは享年69歳で逝去する。

「昨年12月に入院し、退院するにあたり、家に戻したらすぐに死ぬのではないかと思い、施設に入居させました。施設では本当によくしていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

 かずひろは結婚もせず、実直で仕事一筋という人生を送ってきました。華やいだ時間などなかった人生ですが、施設に入居し、若い人に声をかけてもらい、色のついた時間を過ごさせていただけました。本当にうれしいことで、私たちにとっても救いです。」

と、お通夜の時の兄が喪主の挨拶で述べた。

あなたの物語 №3

~それではと思い、好きな土地に行って働こうと思う…金沢から尼崎から東京~

れい子は、常々「死ぬことは怖くはないけど、後始末をしてないから簡単には死ねない。そして自分の死体の迷惑を掛けないようにしたい。」「生きたいとも死にたいとも思わない。人に迷惑掛をかけたくない」と言っていた。

平成20年9月S状結腸ガンの進行、肝臓・肺に転移。れい子は担当医のインフォームドコンセントのときガンの状態を自分でも確認し、「何もしないを選択したい」と言った。その後もぎりぎりまで飄々と高齢者施設で生活した。周りから心配されても、「病気のことなど覚えていない」と何もなかったように答える。そして「物覚えが悪いのは、私はもともと自分に関係ないことは覚えないようにしているからね・・・・」と笑う。平成21年7月、れい子は85歳で帰らぬ人となった。本人が心配していた亡骸は輪島で荼毘に付され、実家のお墓に納骨された。

れい子は大正15年1月、輪島の蒔絵師の家に8人兄弟の上から5番目に生まれる。尋常高等小学校卒業後、縫製工場に1年間働くも、何か身につけたいと思っている時に、朝日新聞の広告に京都大学の看護婦学校の募集を見て上京する。3年間の看護学校を卒業し、従姉妹の薦めで、金沢で勤務を考える。3人の医者からプロポーズされたが、本人には足のコンプレックスから、結婚については考えたことがなかった。20歳から20年間2か所の国立病院に勤務する。20年間勤務すれば厚生年金がもらえると思い退職するも、制度的な勘違いで一時金しか下りなかった。それではと思い、好きな土地に行って働こうと思う。まず兵庫県尼崎市の診療所で1年間勤務し、その後、東京に移住して日本通運健康保険組合東京病院の病院に1年勤務し、東大病院に昭和60年、60歳まで勤務する。

退職後は自然観賞を楽しんだり、音楽を鑑賞したり、相撲を友達と見に行ったりとゆったりした暮らしがつづく。住居は昭和49年千葉のマンション住まい、昭和53年から自分の好きなものに囲まれた趣味のいい一軒家でペットの猿といっしょに暮らし充実した日々を過ごす。洋服は気に入ったものを長く着るタイプでそんなに買わないが、雑貨は好きで、家に来た人達は“素敵な部屋”と言ってくれた。部屋毎に雰囲気のあった家具やカーテン小物を置いていた。

そのうち猿が亡くなり、千葉での独居生活に防犯の面で不安を持つようになり、兄弟からの勧めもあり、平成17年4月から金沢に移住することに「何となく」なる。

れい子の上には兄が4人にいた。長男は戦地から一旦戻り、家業を継ぎたかったが父とうまくいかなかったようで、神戸で輪島塗の商売を始めた。次男は戦死した。次男は無口で、優しい誰からも好かれるタイプで、外見もよかった。三男は戦地から帰って県外に行った。四男は戦地から海を渡って逃げてきた。

長男は世界の文学全集などを読むのが好きで、蔵の2階にその全集や雑誌が置いてあり、れい子は小さいときから文学全集を読んでいた。本の影響もあってか、「人を恐れるとか、遠慮するとかはしないタイプ」になった。蔵で初めての本に会った時のドキドキ感は忘れられない。

その当時、京都の看護婦学校に行くことができたのは、戦争中に「女でも家に置いておくと戦地に連れて行かれると」噂が立っていたので、両親は何も言わないで出してくれた。

「京都の病院に18人入院患者がいる部屋があって、偉そうにしている看護婦達でも、泣きべそをかいて出てくるような患者がいた。私がその部屋に入ると『ムッソリーニと片手を斜めに上げて』敬礼してくれた。その部屋の一人に何のことか聞くと『ムッソリーニは英雄だから』と言われた。」

また、あの頃のことではっきり覚えていることがある。医者に頼まれて入院していた人を都ホテルに送っていった。都ホテルに大変興味があった。その女の人をホテルにいた男の人の所に送っていったが、その後、『新潮』という雑誌にその女の人の写真が載っていたが、その人は女優の桂珠子という人だった。

れい子は人生の中でずーっと申し訳ないと思っていることがある。 自分が偉業をしたいなどと思ったことはないから、振り返って後悔するようなことはなにもない。目の前に頼ってくれる患者さんを看護することだけ考えて仕事をしていたから、どこの病院の仕事がどうだったとか思ったことはない。ただ、尼崎で1年間働いた診療所の院長には申し訳ない気持ちを持っている。大阪駅から神戸側へ2つ目の駅だったと思うが、新聞記者がここはこわいところなのに大丈夫かと聞かれたことがある。こわい人が集まっているところだったが、そこの院長はどんな患者でも、何日もお風呂に入っていない人でも頼ってくる患者の面倒をみる医者だった。どんなに暴れる人でもその医者が一言怒鳴ると子供のようになった。そんなすごい院長に辞めないでくれと言われたのに、東京に行ってしまったことが、申しわけないことだったと今も思う。病院の名前は「とのうち(戸ノ内診療所)」だった。(※戸ノ内診療所は2023年3月31日をもちまして閉院。69年間の幕を閉じた)

れい子は施設の喫茶などで周りの方と楽しく話をするのが好きだった。れい子と周りの人とのユーモアに富んだ話が飛び交う。眉毛が長い男性に「その眉毛は自毛ですか?」と聞く。「自分の毛や」と相手が答えると、「そんなところカツラでもないし、立派な眉毛ですね」と言う、相手は「わしだけやこんな眉毛してるのは」と言う。その後、髪の毛の話になり、相手の方が「髪の毛がごわごわして広がる。今は少しましになった。昔は広がるので、パーマをあてていた」と話す。れい子は考え込みいきなり笑いだし、「あなたのパーマは想像できないわ」とまた考え込む。もう一方には髪のない方だったが、その方に「髪の毛の無いのは、いろいろと下(子・孫・ひ孫)に譲っているからだ」という。周りは大きな笑いが湧きおこる。

そんなれい子の晩年だった。

あなたの物語 №2

~教員生活62年、「休まず、遅れず、働かずの弥一です」と弥一は胸を張る~

「今から考えると、誇大妄想的でおかしいことですが、 若い頃は何でも自分の力でなれそうな気がしていたのです。 まず、弁護士になれば、やがては代議士ぐらいになれる、そして、すえは総理大臣になれるかもしれないと思ったのです」 16歳で教壇に立ち、総理大臣を目指した弥一は、明治37年(1904年) 3月30日、 岩手県和賀郡笹間村 (現花巻市)の小作農の長男として生まれた。大正時代の風雲に乗じ、独学で教壇に立ち、純真な野心を持って東京にやってきたの である。

「夢は大きい方がいいですからね」と、 照れながら話すが、当時の弥一青年にとっては、総理大臣は夢物語ではなく"大志は必ず実現できる”という意気込みだったのである。

「いつか、生徒の前で、わしは総理大臣になろうと思っているんだと言ったら、総理大臣じゃなくて、草履大臣だ!とひやかされたものです」と、過し日の思い出を振り返える。

当時、学資に乏しい子弟の進む道は、学資官費の師範学校か幼年学校、でなければ夜間の鉄道学校しかなかった。尋常高等小学校を卒業した弥一は、師範学校の試験を受けるのだが、身体検査でトラホームが原因で落とされてしまった。しかたなく、農業に1年間従事、ついで村役場の雇(現書記補)として1年間勤務するが、その間も独学で勉強に励んだ。弥一の青年期は、大正デモクラシーの高まりで、自由と個性を追求する雰囲気が民衆の中に浸透していった時代であった。

大正9年、将来につながる幸運が訪れた。恩師が代用教員の口を見付けてくれ、16歳で教壇に立つことになったのである。代用教員になった年の12月に教員検定試験を受け、尋常小学校本科教員の免許を、ついで、翌年12月小学校本科正教員免許を取得した。これは順調に師範学校を卒業する年数(5年)よりも1年3カ月早かったというが、今の高校生諸君には、信じられないことであろう。

岩手県は、山地が多く、しばしば冷害や水害が起こり、食糧などの生産性が非常に低い時代が長くつづいた。人々は、きびしい自然に耐え、窮乏と戦いつづけ、その鬱積が、地方劣等感と中央憧憬を根強くさせたという。原敬、斎藤実などの政治家もこの県の出身者である。弥一の心の中にも、"東京"への瞳れがふくれあがっていた。小さい時から、たまにしか手に入らない新聞の東京の求人案内をすみずみまで見て、上京する機会をうかがっていた。教員になれたことを幸いに、大正12年春、東京市教員採用試験を受け、合格となった。2ヵ月間の研修を受ける東京市教員講習所の入学式の日に上京しようとするが、その日は折りも折り、あの関東大震災の起こった9月1日であった。そのため、ふたたび岩手の小学校で教鞭をとることになった。大正デモクラシーが高まる一方、大正7・8年頃から、米騒動、シベリヤ出兵、戦後の恐慌、第1回メーデーといった世情不安で騒然としていた。それに加え、関東大震災が起こり、民衆の生活は、まさに野口雨情の『船頭小唄』に象徴され、気持は沈みがちであった。

しかし、弥一の情熱は消えず、一日千秋の思いで東京への再出発を待ちつづけ、ついに半年後の大正13年に上京することになった。20歳で当時の日比谷小学校で教壇に立ちながら、遙かな目標への一歩、すなわち弁護士を目指して勉学に励むのであるが、思うようにいかず、法学通論を手掛けた時に壁にぶつかってしまった。「計画を立てて、図書館に通いながら勉強しましたが、あまりに難しくて、途中であきらめてしまいました」 と、 独学での自分の限界を悟る。

そこで、どうせ教師の道に一生を賭けるのなら、数学をやりたいと思い東京物理学校(現東京理科大)を目指し、願い叶って入学となったが、保証人の手続きが遅れたため、入学を取り消されてしまった。

はた目には、ほぼ直線のごとく見える川筋も、本人にとっては迷いの連続であった。弥一は、挫折感をかみしめながら、これを機にむやみにあがくことはやめ、地道に自分のもらった土壌に根を 降ろし、大木になろうと思った。

昭和39年から中学校校長として退職するまでの44年間を小中学校の教育にたずさわり、その後、女子大学学生課長12年、嘱託として6年間学生指導にあたった。78歳まで教職を天職として、ひたむきに 勤めあげた。

62年間の教員生活の中で、1日も休まずに勤めあげたことをたったひとつの自慢だと言って胸を張って、「休まず、遅れず、働かずの弥一です」と笑わせる。 しかし、教員を志している者の中で何人が、弥一のたったひとつの自慢を実現できるであろうか。

弥一のもの腰は、実に温かくて、博識と回転の早いユーモアに半世紀以上の年齢差も忘れてしまう。こういう態度は、誰に対してもそうであって、相手の社会的地位や、職業、年齢など全く無関 係である。 「生まれつきか、学校生活を経験しなかったせいもあるのか、人間関係についてもこわいもの知らずになっているのです。それが欠点でもあって、恥をかいたこともいっぱいありますし、にらまれたこともあります」 と言うが、損得を考えないで、自然に自分の意見を言える弥一には、硬骨とした精神と少年のような純粋さを感じる。

「教育というのは、一人ひとりを大事にすることであると思ってきました。どんなにできない子供でも、一人ひとりの個性を大事にはぐくもう!というのが私の教育の原点でした。なぜなら落ちこぼ れみたいな生徒とか、寝ているか起きているか分からないのでお客さん呼ばわりされている生徒でも、心の中では、いろいろなことを考えているものです。そういう人間性を大事にしてやらなければ、なんのための教師でしょうか」というのが、弥一の教育理念であるが、そういう落ちこぼれに対して、非常に冷淡になってきていると心配する。 "人生” のことは分からないと言うが、 教育観がそのまま弥一の人生観とも言える。「世の中は、この30年なり50年の間 に偏差値評価というのが骨の髄まで染み込んで、人間の見方を点数だけで評価するようになってきました。 今の臨教審は、その悪い流れに乗っていると思うのです。 こういう状態で、修業年月がどうとか、カリキュラムがどうとかという問題に取り組んで制度を変えようとしても上っ面だけを走っているようなもので、本当の教育は出来ません。 “天は人の上に人を作らず”ということばがありますが、 最近では“点は人の上に人を作り、人の下に人を作る”という弊害が横行しています。 そして、世の中が、 その弊害を弊害と思わないところにこそおそろしさがある・・・と、古い教師は危機を感じています」と教育人生を生き続ける。(昭和61年2月の弥一の言葉。弥一は99歳で亡くなる。)

「勉強がらくになるためには、受験生であっても、本当に自分のやっていることに興味を持つということが必要だと思います。もちろん目的を決めてやることも大事ですが、自分が勉学をしているのに、勉強に興味がないと、ただ暗記しなければならない、合格しなければならないということだけが先行してしまいます。それでも、いい大学に入れるかもしれませんが、将来にわたっての本当の勉強の土台というものができてこないのです。

今の人達は、よくマンガを読んでいるといわれていますが、マンガも本当に興味を持って、その奥に入りこめば、その中に人生観を見い出すことも出来ると思うのです。興味をもてば、知識が確実になり生涯の力になります。皆がいくから大学を受けるのではなく自分にとって興味のものがあるからこそ、大学を受けるのだ! という自覚を持ってください」 とこういく人過ぎに生きる弥一は語り続ける。(昭和61年2月の弥一の言葉)

あなたの物語 №1

~いつも不足を言わず、家族に満足し「まあ、最高に幸せやね」が口癖だった~

忠一は昭和2年3月27日、富山県黒部市に生まれる。3男3女の上から3番目。幼少の頃、叔父夫婦の養子となる。尋常高等小学校卒業。15歳の時、飛行機に憧れて東京立川の日立航空(株)の青年学校で学びながら飛行機工場で働く。忠一は、子どもの頃はやんちゃなであったため、校長先生も心配していたようだ。日立航空の青年学校に合格したのが学校で2人だけだったことから、全校生徒の前で校長先生は涙を流して喜ばれていたと言う。

忠一は18歳の時、兵隊検査を受け、甲種合格となるが、航空で働いていたため、戦地に行かなかった。東京大空襲の時、工場は爆撃される。工場にいたほとんどの人が亡くなった。忠一は、まさにその時、腹痛に襲われトイレに行っていた。一瞬の出来事だった。黒部から一緒に来ていた友達も戦火の中で亡くなってしまう。終戦直後の昭和20年8月20日に黒部に帰郷し、友の家に骨壺を届けた。その時の友の両親の涙は一生忘れられなかった。

その後、養父が建設省に勤務していたため、家の農業を主に行い、冬場は東京などに出稼ぎに行っていた。

小学校の同級生や村の幼馴染、兄弟との絆は強く、晩年まで行き来をしていた。忠一は身長155センチほどしかなかったが、農業や肉体労働で鍛えたがっちりした体格で力持ちだったため「熊の忠さん」と呼ばれていた。また、性格的にはやんちゃで、きかんぼうだったが、人情に厚く家族、親類、友達や近所の人を分け隔てなく大切にする人物で、縁の下の力持ちとして「石の盤持つ」「花棒」と周りから言われていた。

天真爛漫な性格は晩年まで続いたが、破天荒な面もあり、家族特に妻は大変苦労した。こんな出来事があった忠一60歳の頃、小学校の同級生の一人で指定暴力団の幹部がおり、同級会で還暦の祝いをするときに黒部に来ることになった。その同級生は親も亡くなって、宿泊先がなかったので、忠一は妻のとしには素性を言わず、家に泊めることにした。としは忠一の友達をもてなすために一生懸命手料理を作った。いざ、その友達を見たとき、異様な感じがしたという。腕に金鎖、黒い背広、サングラス、・・・・身の毛がよだった。どうしていいか分からず、早く立ち去るのを静かに待った。翌日、子分2人が車で迎えに来た。

その日、としと大喧嘩になるが、忠一は「かわいそうな。泊まるとこもないし、親戚も知らん顔やからね。糖尿病にもかかっとるし」、「子分も大人しく、挨拶もきちんとしとった」と言う。襲名披露?にも呼ばれたりした。勿論、家族が行かせなかった。その後もその人が亡くなるまで時々電話が来ていたが、家族には「かわいそうやねけ」が口癖だった。

昭和30年~40年代頃は時々家に「乞食(物乞い)」が来る時代で、忠一はそのたびに10円玉とバナナを渡し、いやな顔をしなかった。また、宗教活動の子供づれのグループが家に時々やってきたが、その時も台所から必ずバナナを持ってきて子供たちに一本一本渡していた。その根底には「かわいそうやねけ」がある。

バナナは忠一にとって特別な果物であった。忠一に限らず昭和30年代までは、バナナは高級なもので特別なものだった。忠一は自分の子供たちにも、お金が入った時には必ず大きな房のバナナを買ってきた。

忠一は出会った人とすぐに仲良くなり、人脈づくりにたけていたのは、破天荒だが憎めない人柄からくるのだろう。

忠一は昭和27年(25歳)の時、養母の姉の子供であるとしと結婚した。としの母親はとしが小学校の頃田んぼで倒れなくなった。養母ととしの父親が行き来のあったことから、忠一は子供の頃から、としの実家に農家の手伝いをしたりと、よく出入りをしていた。としの父親は働き者の忠一を大変気に入っていた。としには心に決めていた人がいたが、許嫁同然だった忠一と結婚することになる。忠一はとしとは5歳違いであったが、としのことを子供のころから好いていた。

としが家で洋裁をしているときなど、窓からチョコレートを投げてプレゼントしたり、盆踊りの時には、村一番の美男子に頼んでとしを自転車に乗せさせたりと自分なりにとしの機嫌を取っていた。

最愛の人と結婚できた忠一だったが、「やんちゃもん」だったため、言葉遣いは荒く、なかなかとしが望んでいるような日常生活は実現しなかった。また、忠一は田んぼ仕事は「ねんしゃもん(丁寧にやる)」だが手が遅く、としの仕事がだんだん増えてくる。

昭和33年に長女、昭和36年に次女をもうける。徐々にとしも強くなり、2人の間は喧嘩が絶えなかった。

長女が生まれたことをきっかけに米以外にたばこ栽培も12年間行う。長女を当てに農業をやっていたが、徐々に限界を感じ昭和45年(42歳)でたばこ栽培を辞め、建設会社(生コンを作る機械操作)に55歳の定年まで勤務する。

昭和42年、40歳の時、姑を家で看取り、舅も最後の最後まで寄り添って昭和56年に見送った。昭和56年長女の結婚、昭和62年孫娘が生まれる。

退職後、1年間技能学校に行き、その後、58歳の時、建設会社に勤務するが、機械整備中に7メートル落下し、両足と顎を複雑骨折し、3ヶ月間入院し、リハビリ通院を続ける。昭和63年、次女の結婚後夫婦2人暮らしとなる。

忠一は、60歳から73歳まで、米やネギ栽培をしながら鉄筋会社、建設会社で働く。米作りは81歳まで行う。畑仕事は平成25年秋(86歳)まで行う。

車の運転は86歳の時返上する。その後、電動自転車に乗り、買い物や銀行、農協などの用足しを行なっていた。平成26年(86歳)2月6日、金沢市の長女家族の近くにある高齢者住宅に夫婦で入居し、1年5か月をとしと隣同士の部屋でデイサービスを利用しながら暮らす。金沢に来るまでは、身体も達者だったので、北海道、沖縄、城崎、奈良、長野など毎年家族旅行を楽しんでいた。旅行の思い出は家族の宝物となる。

平成27年7月6日、レビー小体型認知症のパーキンソン症状の悪化により医王病院に入院する。医王病院では孫娘が主治医となる。その後、地域密着型特養に入居する。家族はコロナ禍の中でリモート面会を続けていた。熱発を機に忠一の身体状況が悪化のため、短時間の面会が許され、家族と1年ぶりに直に会うことができた。令和3年3月3日はサムシンググレートなことが起きた。ひ孫と初めての対面。忠一は細く目を開けひ孫を見た。娘が「お父さんのひ孫だよ」と言うと、目を開いて分かったという満足した表情をした。令和3年3月12日、同じ階に入所していた最愛の母の側で満足した人生を閉じた。

忠一はいつも不足を言わず、家族に満足し「まあ、最高に幸せやね」とよく言っていた。短気で妻を怒りつけたりしていたが、妻がいなくては何もできない人だった。子供を大切にし、孫娘を大変かわいがった。背の小さい忠一だったが、力持ちで家族にとっては頼れる父親だった。

忠一は晩年傾眠状態が長くなり、語彙も少なくなり会話もままならない状態になっていたが、時々忠一らしい面白い顔や言葉を言ってくれた。忠一の得意な言葉は「そうそう」「ほんじゃから」。元気な時は「しっとるちゃ」「しらんちゃ」の2ワードを中心に会話をしていた。